最高裁判所第三小法廷 昭和58年(オ)300号 判決 1989年2月07日
上告人
池畑忠男
上告人
池畑ふ志の
右両名訴訟代理人弁護士
加藤雅友
清水恵一郎
金井清吉
吉峯啓晴
外二六三名
被上告人
国
右代表者法務大臣
髙辻正己
右指定代理人
牧野広司
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人加藤雅友、同清水恵一郎、同金井清吉、同吉峯啓晴の上告理由第一点について
上告人らは、給与所得の金額を計算する際、収入金額から給与所得者の生活費を必要経費として控除すべきであり、これを控除しないものとすることは憲法一四条一項に違反する旨主張するが、その趣旨は、所得税法(昭和四七年法律第三一号による改正前のもの)二八条等に定める給与所得控除額が低額にすぎ、同法が事業所得者等に比して給与所得者を不当に差別しているというにあるところ、同法が必要経費の控除について事業所得者等と給与所得者との間に設けた区別は、合理的なものであり、憲法一四条一項の規定に違反するものではないことは、当裁判所昭和五五年(行ツ)第一五号同六〇年三月二七日大法廷判決(民集三九巻二号二四七頁)に照らして明らかである。そして、憲法三一条、八四条違反の主張は右憲法一四条一項違反の主張を前提とするものであるから失当であり、また、憲法二五条違反の主張が失当であることは後に上告理由第二点、第三点につき説示するところによって明らかである。論旨は、いずれも採用することができない。
同第二点について
上告人らは、昭和四六年分の給与所得に係る課税制度が給与所得者の「健康で文化的な最低限度の生活」を侵害すると主張する。
ところで、憲法二五条にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であって、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たっては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがって、憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない(最高裁昭和五一年(行ツ)第三〇号同五七年七月七日大法廷判決・民集三六巻七号一二三五頁)。そうだとすると、上告人らは、前記所得税法中の給与所得に係る課税関係規定が著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないゆえんを具体的に主張しなければならないというべきである。
しかるに、本件の場合、上告人らは、もっぱら、そのいうところの昭和四六年の課税最低限がいわゆる総評理論生計費を下まわることを主張するにすぎないが、右総評理論生計費は日本労働組合総評議会(総評)にとっての望ましい生活水準ないしは将来の達成目標にほかならず、これをもって「健康で文化的な最低限度の生活」を維持するための生計費の基準とすることができないことは原判決の判示するところであり、他に上告人らは前記諸規定が立法府の裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないゆえんを何ら具体的に主張していないから、上告人らの憲法二五条、八一条違反の主張は失当といわなければならない。所論は、理由不明、理由齟齬、審理不尽をいうが、その実質は憲法二五条違背を主張するものにすぎず、原判決に憲法二五条違背のないことは、右に述べたとおりである。論旨は、いずれも採用することができない。
同第三点について
所論憲法二五条違反の主張は、上告人らに対し前記所得税法中の給与所得に係る課税関係規定を適用することにより上告人らの「健康で文化的な最低限度の生活」が脅かされることを前提とする。しかし、昭和四六年分の所得税の課税によって上告人らの「健康で文化的な最低限度の生活」が侵害されたということができないことは原判決の判示するところであり、その過程に所論の違法はない。したがって、上告人らの右憲法二五条違反の主張は、その前提を欠き失当である。また、上告人らの憲法一四条一項違反の主張は、前記当裁判所昭和六〇年三月二七日大法廷判決の趣旨に徴し、採用することはできない。論旨は、いずれも採用することができない。
同第四点について
源泉徴収制度を定める国税通則法及び前記所得税法の規定が憲法一四条一項に違反するものでないことは、当裁判所昭和三一年(あ)第一〇七一号同三七年二月二八日大法廷判決(刑集一六巻二号二一二頁)の趣旨に徴して明らかである。また、源泉徴収制度の憲法三一条、八四条違反をいう上告人らの主張は、右憲法一四条一項違反の主張を前提とするものであるから失当である。論旨は、いずれも採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官貞家克己 裁判官伊藤正己 裁判官安岡滿彦 裁判官坂上壽夫)
上告代理人加藤雅友、同清水恵一郎、同金井清吉、同吉峯啓晴の上告理由
序論、第一<省略>
第二 給与所得者に対する最低生活費課税の違憲性
一、はじめに
上告人らは、原審において、昭和四六年度における上告人らに対する所得税課税の前提となる課税最低限の定めが、上告人らの健康で文化的な最低限度の生活を積極的に侵害するものであり、憲法二五条の自由権的側面に違反する違憲・無効なものであることを明らかにしてきた。しかるに、原判決はこの点に関し第一審判決の理由中「ただ、右課税最低限が現実の生活条件を無視したことが一見して明白な程に低額である場合には憲法二五条の趣旨に違憲の問題を生ずると解するのが相当である。」(第一審判決五五丁裏六行目から、九行目まで)となる部分を「ただ、現実の生活条件を無視して右課税最低限を著しく低い額に定める等裁量権の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合には違憲な行為として司法審査の対象となることを逸れないと解するのが相当である。」(原判決一四丁表七行目から一一行目まで)と訂正し、同様に「立法府の定めた課税最低限が現実の生活条件を無視したことが一見明白な程の低額である場合にのみ違憲の問題を生ずべきものと解すべきである。」(第一審判決六一丁表九行目から同丁裏一行目まで)とある部分を「立法府の定めた課税最低限が現実の生活条件を無視した著しい低額である等裁量権の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合には違憲の問題を生ずべきものと解すべきである」(原判決一四丁裏二行目から四行目まで)と訂正し、さらに「本件係争年度の課税最低限が一見明白に現実の生活条件を無視しているものとは到底いえない」(第一審判決六四丁表七行目から九行目まで)を「本件係争年度の課税最低限が現実の生活条件を無視した著しく低い額であるとは到底いえない」(原判決一四丁裏四行目から五行目まで)と訂正して第一審判決が「一見明白性の原則」を採用したことに否定的な見解を明らかにしたほかは、若干の補充を行なったのみであとは第一審判決をそのまま引用している。このような原判決の認定は生存権を保障した憲法二五条、裁判所の違憲審査権を規定した憲法八一条に違背し、破毀を免れないし、理由が不備ないし齟齬しており、証拠に基かず立法事実の認定をするなど審理不尽その他の判決に影響を及ぼすべき法令違背があるのでその観点からも破毀は免れない。以下、詳論する。
二、1 原判決は、すでに述べたとおり第一審判決が「一見明白の原則」を採用した点をはっきりと訂正している。「一見明白性の原則」は経済的自由権に対する司法審査基準として唱えられているものであるから、憲法二五条の自由権的側面が問題とされている本件において、「一見明白性の原則」を持ち出した第一審判決は全く見当はずれである。したがって、この点を訂正した原判決は、訂正したという一点においては正当である。しかし、原判決を読む限り何故に訂正したのか、第一審判決と一体どこが違うのか全く不明である。その意味で原判決は理由不備の謗りを免れないが、結局のところ、歯止めのない大幅な立法裁量論を憲法二五条の自由権的側面に関して是認している点において、憲法二五条に違背し、違憲審査権について定めた憲法八一条にもまた違背していると言わざるをえないのである。以下①憲法二五条の性質②憲法二五条違反に関する司法審査基準③課税最低限の意義④税制調査会の答申と立法事実⑤各種統計数値に対する評価⑥総評理論生計費と憲法二五条について順次、原判決の誤りを指摘するとともに上告人らの主張を明らかにしたい。
(一) 憲法二五条の性質
(1) 原判決の引用する第一審判決は憲法二五条について、次のとおり判示している。
「憲法二五条第一項は『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』と規定している。この規定はすべての国民に『人間たるに値する生活』を営むことができるように国政を運営すべきことが国家の責務であることを宣言したもので、一八、一九世紀における自由権的基本権から一歩を進めた国家の積極的関与による生存権的基本権を保障した点に重大な意義を有するものであるが、同時に国家は国民自らの手による健康で文化的な最低限度の生活を維持することを阻害してはならないのであって、これを阻害する立法、処分等は憲法の右条項に違反し無効といわねばならない。」
(2) 原判決の右のような認定は、一応憲法二五条一項に自由権的な効果があり、それを阻害する立法、処分等が憲法二五条一項に違反し無効である点を明らかにした点において、被上告人が憲法二五条一項の社会権的側面と自由権的側面との区別ができず、自由権的側面に関してもプログラム規定であるかのごとく主張しているとの比較すれば一応は評価しうるように思われる。しかし、それにもかかわらず、原判決が本件に関する司法審査基準として「一見明白性の原則」を一応は否定しながらも結局は大幅な立法裁量論を採用していることを考えるならば原判決は憲法二五条の性質、なかんずくその自由権的側面について正しい理解を持っていないのではないかと思われる。すなわち、憲法二五条一項が「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているのは全ての国民に「人間たるに値する生活」を営む権利を自由権的基本権から一歩進めた国家の積極的関与を要求する生存権的基本権すなわち社会権として保障したものである。問題となるのは何故に憲法が生存権を社会権として保障したかであるが、それは第一に、生存権が個人の尊厳を基調として基本的人権を保障している日本国憲法の下において、個人の尊厳を直接に保障しているものとして格別の重要性を持つからであり、第二に、国家が国民に対し「人間たるに値する生活」を実際に保障しようとするならば、単に自由権として放置すれば足りるのではなく、社会政策・経済政策等によって国家が積極的に国民の「人間たるに値する生活」を実現しようとすることが必要となるからである。
(3) したがって、憲法二五条一項が社会権としての生存権を保障している当然の前提として憲法二五条一項は自由権としての生存権すなわち生存権の自由権的機能を保障しているのである。そして、自由権としての生存権はプログラム規定ではなく確固とした法的な権利である。それはまた、個人の尊厳を直接に保障するものとして憲法の価値序列において最も重要なものである。
もし、自由権としての生存権が侵害されたとするならば、その行為は直ちに憲法二五条違反として違憲・無効の問題を生ずることとなるのである。すなわち、そこでは国会の立法裁量などというものが本来働く余地がないものである。原判決は憲法二五条の自由権的効果を認めながら右のような自由権としての生存権の性質に対する理解を欠いたものではないかと思われる。
(二) 憲法二五条違反に関する司法審査基準
(1) 憲法二五条一項の生存権の自由権的効果を右のように解するならば、自由権としての生存権に対する侵害があったか否かの判断にあたっては「一見明白性の原則」を採用することはできないのは当然であるのみならず、大幅な立法裁量論を採用することはできない。なぜなら、自由権としての生存権は、本来国の社会政策・経済政策とは無関係に確固とした法的な権利として存在しているのだからである。原判決はこのような自由権としての生存権の性質を誤解したため「一見明白性の原則」を一応は否定しながらも、結局、大幅な立法裁量を是認する立場にとどまっているのである。
(2) この関係を今少し詳しく説明するならば以下のごとくである。すなわち、憲法二二条及び憲法二九条によって保障される経済的自由権は憲法二五条などとの関係において制約されることが多く、その具体的な制約のありかたは国の社会政策・経済政策がいかなるものかによって大きく左右される。同様に社会権としての生存権に関しては具体的にどのような施策によって国民の「人間たるに値する生活」を保障するかは、やはり国の社会政策・経済政策と密接に関連することとなる。そのためどのような施策を行なうかについては、やはり立法府たる国会の判断を尊重せざるをえなくなる余地がある。そこで、その施策のありかたが一見明白に立法府たる国会の裁量を逸脱しているときにのみ違憲であるとして同様に「一見明白性の原則」が持ち出されたり、いわゆる大幅な立法裁量論が認められたりすることになるのである。しかし、伊藤正己最高裁判所裁判官が、近刊の「憲法」(弘文堂法律学講座双書)の中で、憲法二五条の社会権的側面の立法化されたものに関する司法審査について述べているように、「いかなる場合にも、立法者のとった政策判断を尊重して、そこに合理的な目的を認めるとする判示方法をとるならば、プログラム規定説と同じことになる。裁判所に求められるのは単純な立法裁量論を排除するための審査基準の確立である。」と言わなければならない。この点において、原判決の誤りはすでに明白である。
(3) もっとも、原判決が大幅な立法裁量論を採用している表向きの理由は何が「健康で文化的な最低限度の生活」であるかは算術的な正確さをもって一義的に決定することはできない性質のものだからその認定判断は立法府たる国会の合目的的な裁量判断に委ねられているものとみるべきであるというにある。すなわち、原判決は司法審査基準として「一見明白性の原則」とあまり大差のない大幅な立法裁量論を採用したことについて次のように第一審判決を引用訂正して述べている。
「健康で文化的な最低限度の生活の意義について検討するに、右生活が人間の生物的生存を維持すれば足りるものでないことは明らかであるが、人間の文化的欲求はもちろんのこと右の生物的生存の維持についても時代の文化的、経済的水準と深く関連し、その発展の状態に応じて規定されるものであるから、要するに右生活とは不断に流動する社会の発展段階において人間としての尊厳をそこなうことなく生活し得る最低限度の生活水準を意味するものと解せられる。従って、何が健康で文化的生活であるかは当該社会の文化的水準、生活様式、国民経済の動向及び国民の生活感情等の社会的諸条件を総合考慮してはじめて決し得るものであるから、ある特定時点における内容を算術的な正確さをもって一義的に決定することはできない性質のものといわざるを得ない。
このような見地からすると、税負担を求める最下限を示す課税最低限を定めるにあたり、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかを認定判断するについては、前記の社会的諸条件の把握並びにこれに対する適切な評価及び判断をなし得る機能と適格を備えた立法府の合目的々な裁量判断に委ねられているものとみるべきであって、その認定判断の誤りは通常当不当の問題として立法府の政治的責任を生ずることはあっても直ちに違憲違法の問題を生じないものといわねばならず、ただ現実の生活条件を無視して右課税最低限を著しく低い額に定める等裁量権の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合には違憲な行為として司法審査の対象となることを免れないと解するのが相当である。」
(4) 「人間たるに値する生活」と言えるためには単に人間の生物的生存が維持されるというだけでなく人間の社会的文化的な欲求が満足されるような生活でなければならない。その意味において「健康で文化的な最低限度の生活」と言えるためには飢餓状況をまぬかれる程度の文字どおりの最低限度の生活ではなく、人間としての尊厳をそこなうことなく生物的欲求は勿論、社会的文化的欲求をも満足させうる基準以上の生活を意味するものと解せられる。もっとも、人間の社会的文化的欲求は勿論、生物的欲求もその時代その時代の経済及び文化の中において決定されるものであるから、「健康で文化的な最低限度の生活」と言う場合、それは固定的なものではなく社会の文化的経済的発展に対応して変化するものである。その意味において原判決が「健康で文化的な最低限度の生活」の意義について第一審判決を引用して「不断に流動する社会の発展段階において人間としての尊厳をそこなうことなく生活しうる最低限度の生活水準を意味する」としていることは不当ではないし、さらに原判決が第一審判決を引用して「何が健康で文化的な生活であるかは当該社会の文化的水準、生活様式、国民経済の動向及び国民の生活感情等の社会的条件を総合考慮して始めて決しうる」としていることもまた不当ではない。しかし、そうだとしても、ある特定時点における「健康で文化的な最低限度の生活」を営むために要する費用がいくらであるかという問題はそう困難な問題ではなくある程度客観的に、したがって数量的にも確定しうるものである(伊藤正己、憲法三六二頁)。すなわちある時点を特定しさえすれば(本件においては昭和四六年と特定しさえすれば)その時点におけるわが国の文化的水準、生活様式、国民経済の動向及び国民の生活感情等の社会的諸条件も十分特定しうるのであるから、それをふまえて、実体的な生計費を前提にして計算していく方法を用いても、あるいは理論的な形で生計費を計算していく方法を用いても、その時点における「健康で文化的な最低限度の生活」を営むのに要する費用を算出することは、そう困難なことではない(北野弘久証人及び黒川俊雄証人の原審における各証言)。したがって、原判決が「ある特定時点における算術的な正確さをもって一義的に決定することはできない性質のものである」とする第一審判決を引用しているのが、司法審査の前提として、「健康で文化的な生活」をある程度客観的に、したがって数量的にも決定することもできないという意味合いを持つのなら、それは明らかな誤りである。また、それが文字どおり「算術的な正確さをもって一義的に」決定することはできないというだけのことであるならば、おおよそ「健康で文化的な生活」という社会的文化的概念を「算術的に一義的に」決定することなどできるはずもないから、それはあまりにも当然のことであり、それは原判決の展開する大幅な立法裁量論とは何ら結びつくものでない。すなわち、「健康で文化的な生活」がある程度客観的にしたがって数量的に確定できるものであるならば、「健康で文化的な生活」に要する費用を一定の幅をもって認定し、それとの比較において憲法二五条に対する侵害の有無を決することができるからである。
(5) 原判決は、前者の立場であるとするならば、右のように司法的にも「健康で文化的な最低限度の生活」を営むのに要する費用をある程度客観的にしたがって数量的にも確定しうる以上、それが確定しえないことを前提として大幅な立法裁量論を採用している原判決の立場はその前提を欠くことになる。自由権としての生存権の場合はそれが個人の尊厳を直接に保障する最重要の基本的人権であることから、そもそも、それに対する侵害が許される場合などないのである。したがってたとえば、表現の自由に関する司法審査基準である「より制限的でない他の選びうる手段の原則」などでさえ憲法二五条の自由権的側面には適用されるような余地はないし、ましてや「一見明白性の原則」や大幅な立法裁量論が適用される余地などあるはずもないのである。結局、自由権としての生存権に関する司法審査のありかたとしては「健康で文化的な最低限度の生活」とはなにかを探究し、当該国家行為がそれを侵害しているか否かを厳密に判断すべきであるというにつきる。本件に即していえば、「健康で文化的な最低限度の生活」に要する費用(それに一定の幅があることは当然である)を探究し、本件課税最低限の定めがそれを下回っているか否かを判断すべきであるということになる。
(6) 原判決は、大幅な立法裁量論に立つことを前提にして「違憲判断にあたっては課税最低限がおよそ概算的に考えられる最低生活費を著しく下回っているか否かを判断すれば足り、最低生活費の数額を具体的に確定する要はない」と判示するが、少なくとも、裁判所としては、最低生活費をある幅をもって具体的に確定し、現実の課税最低限がそれを(具体的には幅をもって確定された最低生活費の下限)下回った場合には違憲判断をなすか、少なくとも、国側に右のような事態に立ち至っていることの合理的根拠を立証させる厳格な審査をなすべきであろう(伊藤前掲三六二頁)。
(三) 課税最低限の意義
1 上告人らは、第一審以来、課税最低限とは人的控除のみを指すと主張して来た。
それに対し、原判決は第一審判決と同様に課税最低限として、基礎控除、配偶者控除、扶養控除のいわゆる人的控除のほかに給与所得控除及び社会保険料控除をも合算している。しかし、少なくとも最低生活費非課税の原則という観点から見た場合、課税最低限は国民が生活費として処分しうるものに限定されてしかるべきであるから必要経費の概算控除としての性格が主要なものと考えられる給与所得控除や一種の公的負担として給与所得の額に応じて自動的に強制されている社会保険料については課税最低限に含めて考えるべきではない(北野弘久証人の原審における証言及び谷山治雄証人の第一審における証言)。原判決は社会保険料控除について、「同保険料は不時の疾病もしくは老後の生計に備え医療費もしくは年金受給のために積立てるものであることが明らかであるから、課税最低限に含めるべきである」旨判示する(原判決一五丁裏二行目から六行目まで)。上告人らは社会保険料について、それが「不時の疾病もしくは老後の生計に備え医療費もしくは年金受給のために積立てるものであること」は争わないが、そうだとしても、社会保険料は租税と同様負担を強制されるもので国民はそれを生活費として処分することが全く不可能なのだから、最低生活費に対する課税が違憲かどうかが問題となっている本件において課税最低限に含ませることができないのは当然であり、原判決の認定は誤りである。また、原判決は少なくとも上告人らに対する昭和四六年度の課税処分の合憲性を判断するにあたっては給与所得控除額をも加えて課税最低限を考えるべきであるとするが、上告人らは昭和四六年度の制度としての課税最低限の合憲性を争っているのだから「上告人らについては」給与所得控除額を課税最低限に加えるというのは制度違憲の判断と適用違憲の判断とを混同したものと言わなければならない。上告人らは、原審において、第一審判決に対し同様の指摘をしたが、それにもかかわらず、原判決がこの点に関し、そのまま第一審判決を引用しているのは理由不備である。
2 仮に百歩譲って給与所得控除額を課税最低限に合算するとしても原判決も認めているように給与所得控除に必要経費の概算控除の性格がある以上、全額を合算することは許されない。むしろ被上告人は第一審以来の控訴人らの再三にわたる求釈明に対し給与所得控除のうち必要経費の概算控除分ほかのそれぞれの比率について具体的な主張を行なわないのだから、結局は給与所得控除の大半は必要経費の概算控除分と見るほかはないのである。
3 上告人両名の昭和四六年度の所得税の課税においては上告人両名の人的控除の合計額は年額金五二万五〇〇〇円(上告人ら各自の基礎控除額金一九万五〇〇〇円、上告人池畑忠男につき扶養控除額一三万五〇〇〇円)であるから、この金額で上告人ら三人家族が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができたか否かが問題となるのである。仮にこれに給与所得控除額全額を加えても(そうすべきでないのは前述のとおりであるが)年額金一二二〇万円余、月額金一〇万一〇〇〇円強に過ぎないからこの金額で上告人ら三人家族が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができたか否かが問題となるのである。
(四) 税制調査会の答申と立法事実
(1) ところで、上告人らは被上告人に対し、立法府たる国会が課税最低限の決定に際しいかなる事項を前提としたかについて、再三にわたって、求釈明したが被上告人はこの点につき何ら答えることがなかった。すなわち、被上告人は「一見明白性の原則」に逃げこんで課税最低限に関する立法事実についての具体的な主張立証を一切行わなかったのである。さすがに第一審判決及びそれを引用する原判決は、昭和四六年度の課税最低限が立法府たる国会においていかなる配慮のもとに決定されたかについて言及しているのでこの点は憲法訴訟の定石をふまえたものとして評価することができる。
しかし、右に述べたとおり、被上告人がこの点につき何らの主張立証も行なわなかったために、原判決の引用する第一審判決も認めるとおり右の点を直接明かにする証拠は一切存しない。そこでやむなく税制調査会での課税最低限をめぐる従来からの審議内容から立法事実を推測している。しかし原判決のこの点に関する判断は二つの点において誤っている。第一は、税制調査会における審議内容から立法事実を推測するのは適切でないという点である。なぜなら税制調査会は、総理府の諮問機関であって、その審議・答申はあくまで行政府たる内閣に対するものであり、自ずから立法府たる国会が配慮したであろう立法事実とは異なるはずだからである。したがって、原判決はこのような形で被上告人の主張の重大な欠陥を補うべきではなかったのである。第二に、税制調査会において最低生活費に税負担が食い込むべきではないとする方針が維持され、昭和三〇年代初めはともかくその後次第に課税最低限が引き上げられ、昭和四〇年代に入ってからは、ある程度の貯蓄のためゆとりを織り込んだ水準に課税最低限を定めるべきであるとの論議に移行したものと認定されそのような推移が立法府たる国会においても考慮されてきたものと推認している点である。
(2) しかし、原判決の認めているように税制調査会の昭和三一年十二月の答申においては課税最低限の決定にあたり所得税の負担が最低生活費に食い込むことを避けるべきであるとしつつも、財政需要の確保の面にも重点が置かれたのである。また、税制調査会の昭和三九年のいわゆる「長期答申」も、「最低生活費をどのようなものに想定するにせよ、所得税の課税最低限が絶対にこれにくい込んではならないという考え方自体についても、
(イ) 所得税が課税されない階層にも間接税等を負担している者もあり、所得税の負担は間接税等を含めた全体の税負担の一環としてそのあり方を考えるべきであること。
(ロ) 税は本来公共サービスに対する対価の性質を有するものであり、税負担は生活費の枠外のものとみるべきではないこと。
等の点から考えて、必ずしも疑問なしとしないのである。」と述べ、最低生活費を真に保証する課税最低限の決定には難色を示してきている。そして、その後の課税最低限のひきあげによる所得税減税はいずれも、国民所得の伸びの枠内にとどまり、これを下廻ってなされてきた事実からも、時代の推移とともに、最低生活費の水準にみあう課税最低限のひきあげがなされたことはかつて一度もなかったのである。いうまでもなく、GNPあるいは国民所得が増加すれば、税収は増大する。累進課税構造をもつ税体系の場合、所得の増加率以上に税収が増加することになる。そして物価騰貴等の圧力によって各自所得が増加する場合、税負担が累増すれば、実質所得は低下し、実質的増税をもたらすことになる。昭和三九年以降の所得税の自然増収に対する減税率をみても、昭和三九年32.5%、同四〇年20.8%、同四一年71.0%、同四二年40.1%、同四三年26.7%、同四四年25.7%、同四五年37.5%、同四六年24.1%であり、このうち、人的控除の引き上げは、毎年一万円以下の範囲内であるにすぎない。そして、給与所得者の納税者は今日まで急速に増大してきており、すでに勤労所得者の約八五%に達してきているといわれる。このことは、全体として人的控除――課税最低限――の引き上げがきわめて不充分であることを示しているのである。
このように、実際には所得と生活水準の向上にみあって課税最低限が最低生活費を上廻って引きあげられてきたとする事実は存在しないし、税制調査会において、そのような議論が一貫してなされて来たという事実もないのである。
原審における黒川俊雄証人の証言によっても課税最低限の金額は給与所得控除を含めたとしても生活保護基準と比較してみた場合にどんどん下がってきており、現在では生活保護基準の約七〇%にまで下がってきているのである。してみると、税制調査会及び立法府たる国会が課税最低限を定めるにあたって最低生活費に食い込まないように配慮してきた事実のないことは今日一層明確となっているといわなければならない。
(3) すなわち、立法府たる国会は、昭和四六年度の課税最低限を決定するにあたり、最低生活費非課税という憲法上の原則を一切考慮しなかったために後に詳論するように課税最低限は、最低生活費を下回り、上告人らの自由権としての生存権を侵害しているのである。
(五) 各種統計数値に対する評価
(1) ところで上告人らの自由権としての生存権に関する司法審査基準によれば、昭和四六年度の課税最低限が自由権としての生存権を侵害するか否かを決定するにあたっては実体的な生計費を前提にして昭和四六年度における健康で文化的な最低限度の生活を営むのに要する費用(それが一定の幅を持つことは当然である)を算出するか、あるいは理論的な形で右のような費用を計算するかしなければならないが、税制調査会で課税最低限と比較するために用いられた仮定生計費、標準生計費、家計調査における消費支出金額等はいづれも重大な欠陥を有するものであって、課税最低限の合憲性を論ずるにあたっては、参考にすることができないものである。そのことは仮に、司法審査基準として「大幅な立法裁量論」を用いたとしても、同様である。現に原判決の引用する第一審判決も、次のように述べて、右各統計資料には調査方法、目的等からくる制約のため課税最低限確定のための資料としてはそれぞれ難点を有していることを明確に認めているのである。
「先ず仮定生計費についてみると、その算定方法は既に述べたとおりであるところ、成立に争いのない甲第一〇号証、証人谷山治雄こと三浦誠の証言によれば、仮定生計費の基となった献立表は通称大蔵省メニューと称されその献立内容が日常生活にそぐわない面も有していること、食料費算定に利用される統計値がほぼ一年前のものであること、昭和三九年当時に算定した基準生計費を単に消費者物価指数で引き伸ばして仮定生計費を算定したにすぎないため生活の質的向上の面が無視されているなどの批判がなされていることが認められる。
次に標準生計費についてみると、成立に争いのない甲第一七号証及び原本の存在と成立に争いのない甲第三五号証、第三六号証の一、二、第三七、三八号証並びに証人松井朗の証言によれば、標準生計費とは人事院が国家公務員の俸給表改善の勧告を行うための一資料として算出するものであるところ、右生計費は公務員の俸給水準を検討する目的で作成するため人事院が設定した有業人員一名の単身、夫婦、夫婦及び子供の世帯として想定し、これら世帯の生計費を算定するものであるが、その原資料は主に総理府の家計調査の結果を利用して行われるところ、その問題点としては右標準世帯についての統計資料が少ないこと、二人世帯以上を対象とする家計調査の結果に基づき単身世帯のマーケットバスケットを組むため単身世帯の特殊性が生計費に現われにくいこと、世帯人員数別費目別換算乗数(通称マルチプス)算出にあたり並数階層の数値を使用すること、単身世帯の費目別消費支出金額を推定するのに最少二乗法による際、零人世帯の支出は零円であると仮定し、零点通過の二次式を用いること等のため生計費がかなり低く算出されるとの批判がなされていることが認められる。
更に家計調査における消費支出金額についてみると、成立に争いのない甲第一六号証、第二三、二四号証及び乙第二七号証並びに証人宮崎礼子の証言によれば、総理府の家計調査は全国の非農林漁業世帯(農林漁業世帯のほか、単身者世帯、料理飲食店、旅館等を除く。)を任意抽出法により約八〇〇〇世帯選び、これら世帯の六箇月にわたる家計簿記入に基づき行われるものであるところ、かかる調査は調査方法からくる制約のため上層偏向を生じやすいこと、調査の主目的が国民経済計算や消費者物価指数の算出を目的とするため個々の生活実態の把握には不十分であること等の批判が存することが認められる。」
(2) ところが、原判決は右のような認定をしながら、「元来健康で文化的な最低限度の生活なるものは何らかの統計資料により一義的に確定し得るようなものではないことは既に述べたとおりであるところ、右統計資料についてもこれらを絶対的基準としているわけではないし、仮定生計費についてみれば、仮に献立内容に日常食生活とそぐわない点や食料費が低目であるなどの点はあるとしても、昭和四六年度の課税最低限は仮定生計費の約1.5倍の水準にあること、また家計調査については実態生計費としての価値は評価すべきものがあるというべきであるし、この家計調査に基づく消費支出金額の九〇パーセントを課税最低限が占めていること等に照らすと本件係争年度の課税最低限が現実の生活条件を無視した著しく低い額であるとは到底いえないのである。」として結果的には右各統計資料を用いて合憲判断を導き出しているのである。このような原判決の認定は理由齟齬でもある。
しかし、原判決のこのような認定判断は上告人らの批判の理解が不十分なところからくるものと思われる。
すなわち、仮定生計費は昭和三九年のマーケットバスケット方式によるいわゆる大蔵省メニューを基礎に一定のエンゲル係数で除して算出した基準生計費を消費者物価指数でひきのばした額である。その欠陥は、第一には食料費の現実性のない低額な試算にあるが、そればかりではなく、第二にはエンゲル係数を高く見積っていること、第三に、単純に消費者物価指数を乗じているだけで、これを上廻る住宅費の高騰や、所得の伸びと、生活構造、消費構造の急激な変化に伴う支出の増大と生活水準の変化を全く反映させていないこと、第四に、この金額が生活費の一部である消費支出に対応するものにすぎないこと等にある。そして、これらの欠陥が相互に掛け合わされて相乗的に影響し、より低い数値となる結果、一五〇パーセントという見かけの数値では補えない比較に耐えないものとなっているのである。
また、家計調査の消費支出の九〇パーセントに達しているとされているが、この比較も重大な誤りを含んでいる。第一に、上告人の第一審最終準備書面でも指摘しているとおり、昭和四六年度の東京都区部の勤労世帯の家計調査の支出総額は二一三、二六四円で、これから繰越金四三、七七七円を引いた金額一六九、四八七円を一二倍すると年支出二、〇三三、八四四円となる。昭和四六年度の給与所得控除を含む課税最低限はこの勤労世帯の現実の平均年支出の五割以下でしかない。ちなみに、消費支出とだけ比較したとしても東京都区部の昭和四六年の消費支出額は年一、二三一、二四八円であり、給与所得控除を含む課税最低限はこれよりも約二三万円も下回っているのである。第二に、消費支出は、実質的な生活費支出のうち、食料費、住居費、光熱費、被服費と雑費の五大費目のみに限定されており、これだけでは必要な最低生活費に及ばないことは余りにも明らかである。ちなみに、消費支出の住居費は家賃、地代のみが計上されているにすぎず、住居の購入や月賦返済金等は実支出以外の支出とされ消費支出から除外されている。しかも、この住居費は持家で、地代、家賃を支出していない者も含んだ平均値にすぎない。また、貯蓄は消費支出に含まれないのであるから、消費支出より下廻る課税最低限ではおよそ貯蓄のゆとりある金額に達していないことは余りにも明らかであろう。そもそも勤労者所得者の貯蓄は余裕があるから貯蓄するのではなく、我国の社会保障制度の不備、住宅政策の貧困、教育費の高額個人支出の必要等から、財産のない低所得者層ほど、生活の不安定さゆえに、苦しい中からも、将来の住居確保、教育備蓄、不慮の災害、病気、老後の生活等のために貯蓄をしなければならない現実のなかでなされており、貯蓄は将来の生活費支出に他ならないのである(小林綏枝証人の原審における証言)。勤労所得者の生活費は総支出でまかなわれているものであって、そのうちの消費支出にも明らかに達しない課税最低限の額は、最低生活費にも達しないものであることは余りにも明白といわなければならない。
更に付言するに、原判決は課税最低限に非消費支出たる社会保険料を含めるという立場をとりながら、生活費の一部にすぎない消費支出とのみ対比しているのであって、理由齟齬の違法があるといわなければならない。
(3) 以上の点からみて、右資料から「昭和四六年度の課税最低限が現実の生活条件を無視した著しく低い額であるとはとうてい言えないのである。」という原判決の誤りは、明らかである。むしろ逆に右のような事情を考慮するならば、立法裁量論の立場に立っても昭和四六年度の課税最低限が最低生活費にも達せず、上告人らの自由権としての生存権を侵害していることは明白であるといわなければならない。
なお、原判決が引用する第一審判決が摘示している税制調査会の諸外国との課税最低限の比較については、税制度の相違、為替レートによる単純な比較で、社会保障制度や物価の差異などによる実生活費の差異等から、このような比較を異にし無意味な比較にしかなっていないことを念のため指摘しておきたい。
(六) 総評理論生計費と憲法二五条
(1) 以上みてきた如く、昭和四六年度の課税最低限が憲法二五条に違反することは明らかであるが、上告人らは第一審以来健康で文化的な最低限度の生活を営むために要する費用の一例として総評理論生計費を主張してきた。いうまでもなく、確定されなければならないのは、健康で文化的な最低限度の生活そのものではなく、健康で文化的な最低限度の生活を営むのに要する費用である。そしてある歴史的時点の国民の必要とする生計費を計算した場合、ある程度の幅はあるにせよ一定の金額(最低生活費)に収束するはずのものである。総評理論生計費は、そのようなモデルの一つであり、しかも、最低生活費を示すものである。
(2) すなわち、総評理論生計費は、日本労働組合総評議会(略称総評)が宮崎礼子氏らに委嘱し理論生計費方式を採用して最低生計費を算定したもので、これまでに昭和三八年一〇月の「新しい理論生計費」以来、同三九年一月、同四一年一〇月、同四四年四月、同四八年八月を各基準とし、五回にわたって発表されてきているところ、右昭和四八年八月の総評新理論生計費についてその作成の基本的考え方をみると、右にいう生計費とは、東京における「一般的生活様式にもとづいた標準的な生計費」を意味し、右の標準的とは現在の生活環境においてどうしても必要だと考えられる生活内容つまり「社会進歩の現段階に相応する理論生計費」を指すものとしている。算出にあたってはマーケットバスケット方式を採用し、生活のモデルとしては新たに春闘共闘賃金専門委員会での労働者の「あるべき生活像」をめぐる議論を踏まえ、能動型、主体的行動型の余暇を考慮し、ハイキング、スキー、登山、家族旅行などの比重を高め、単身世帯では語学研修、複数世帯では主婦のけいこごと、夫の趣味(釣り)、長男のサイクリング、長女のピアノのレッスンなどを加味したこと、食事面だけでなく、食事を楽しむという性格を考慮し、晩酌を毎日とり入れた点において特色を有するものとしている。
このようにして算定された総評新理論生計費によると単身世帯(一八才から二〇才までの男子の初級熟練程度の労働者)で月額一三七、〇〇〇円(消費支出預貯金合計一一万六、一九七円)二人世帯(夫二七才、妻二四才前後の夫婦)で月額二五四、〇〇〇円(同二〇万一、一五一円)四人世帯(夫四五才、妻四三才、男子一六才、女子一四才)で月額四五六、〇〇〇円(同三三万九、七〇二円)をそれぞれ要するものとされている。
総評理論生計費は、現実の生活と全く遊離した空想的な生活モデルに基づいて算出されたものではなく、現実に考えられる標準的な生活モデルに基づいて物量積上げ方式によって算出されたものである。そこでの品目の選定にあたっては、例えば四人世帯では大型耐久消費財としてピアノが選定されているが、逆に乗用車などは含まれておらず、大型耐久消費財としては一点だけピアノがその代表として選定されているにすぎない。家具などについても、建物の容量に応じた標準的な品目が選定されているだけで、何もかにもがとりいれられているのではなく、様々な消費財のなかから代表品目として選定されているのである。しかも、これらの品目を単年度で全て購入することとしているのではなく、耐久年数によって一ヶ月分の負担額を算出しているのであるから、通年して考えた場合、極めてありふれた標準世帯の支出として考慮されていることがわかるであろう。レジャー支出なども回数も少く、浪費的な支出は何ら見当らないのである。
(3) 健康で文化的な最低限度の生活とは、すでに述べたように飢餓線上をわずかに越えた文字どおりの最低限度の生活ではなく、国民の生物的、文化的及び社会的欲求を満足させうる基準以上の生活をいうのであって、「それぞれの段階での豊かな健康で文化的な生活」(北野弘久証人の原審における証言)なのである。右のような総評理論生計費はまさにこのような考え方を反映したものであって、高度経済成長を達成し、GNP世界第三位となった我国の昭和四六年当時の状況を前提にすれば、憲法二五条の予定するものであるということができる。現に、総評理論生計費の支出項目の一つ一つを検討した場合、それがぜいたくに属するような項目はただ一つもない。たとえば、長女のピアノのレッスンなどを加味したことなどについても、あくまでもモデルの一つとして理解されるべきであって、昭和四六年当時もはや子供に対して何らかのけいこごとをさせるのが通常の生活状況であったことを考えると、何ら異とするに足りない。
(4) ところで上告人らは、三人家族であるところ、上告人らの昭和四六年度の所得税課税に際して適用された人的控除額は年額金五二万五、〇〇〇円であり、仮にこれに給与所得控除を加えても年額一二二万円余円額金一〇万一、〇〇〇円強であって、昭和四四年四月基準の総評理論生計費の二人世帯の生計費よりも低額であるから、本件課税最低限が憲法二五条に違反することは明白である。
(5) これに対し、原判決は第一審判決を引用し総評理論生計費が給与所得者の所得の上位にランクされることのみをもって、それは望ましい生活水準ないしは将来の達成目標を示していると判示しているが、このような考え方は憲法二五条の健康で文化的な最低限度の生活を文字どおりの最低生活と考えるものにほかならず、極めて不当である。
第三 本件に関する憲法二五条の適用違憲性
一、上告人らに対する本件所得税の課税は上告人ら世帯の健康で文化的な最低限度の生活を侵害するものであるから憲法第二五条に違反するものであるところ、原審判決はその判断を誤りこれを合憲とするものであり破棄さるべきである。
1 上告人らの生活概要
上告人ら夫婦は時計メーカーである精工舎に勤務する共働き世帯である。夫は中学校卒業と同時に入社し勤続一九年、自動施盤包装等の工程に従事し、本件当時労組役員の地位にある三四歳の労働者である。妻は時計部品の中間加工、部品検査等に中卒以来従事し、その後現場事務の職にある三一歳、勤続一五年の労働者である。夫の平均月収は一二万三、四九五円(年収一五八万一、九四五円)、妻は一〇万四、一三九円(年収一二三万四、六七一円)でそれぞれほぼ平均的な労働者の賃金収入額である。
上告人らの就業時間は朝八時〜午後四時三〇分であるため、八時の始業時間に間に合わせるためには七時に家を出なければならないので、五時三〇分から六時の間に起床する。自分の身仕度、食事の用意、子供の世話と食事、後片付等々のすべてを限られた一時間余の内で済さなければならない。
四時三〇分終業後、妻は買物をしながら一時間ほどかかって五時三〇分に帰宅。子供の世話、夕食の準備、子供の入浴(三歳児であればほとんど毎日入浴の必要があり、しかも夫妻は光熱費水費節約のため内風呂がありながら銭湯を利用している。)食事等々を少なくとも午後八時までには終らせなければならない。三歳の幼児は最低一〇時間の睡眼を必要とするので、翌朝六時に起床させるとすれば八時には寝せなければならないことになるからである。帰宅から八時迄の2.5時間の間には、しばしば子の発熱等のための通院も加わる。子の就寝後は食事の片づけ、洗濯(三歳児がいるためほとんど毎日)、翌朝の準備等々まさに時間との競争の毎日である。一方夫は労働役員であるため帰宅時間が一定せず、家事負担の多くは妻のものとならざるをえない。
上告人らは昭和三九年に結婚し、前述の如く三歳児を持つが、結婚後安価な住居を求めて八年間に五回移転した。子供が生まれるに際し、子づれでも入居出来、かつ共働きが続けられる路離内に安価な貸家を求めたが得られず、公共住宅の応募にも二三回も落選し、昭和四四年に現住持家の取得に踏み切らざるをえなかった。それは四坪の私道負担のある二〇坪の敷地・延一九坪の二階建ての家であり、妹夫妻(夫妻と子二人)を二階に同居させている。この妹からは家賃をとらず光熱水費を原告が負担することと引替えに、子の二重保育をたのんでいる。
住宅取得のための借金(五五〇万円)返済は各月四万六、〇二八円(年間五五万二、三三六円)である。
上告人らは、夫の両親(父親が交通事故により障害をうけ母親の介護が必要)への月約二万円(年間二三万一、〇〇〇円)の仕送りが欠かせず、夫の収入だけでは家計をまかなうことは不可能であり共働きは不可欠であった。そして、その共働きをなり立たせるためには、持家と子の保育のための妹夫婦の同居の条件を整えねばならず、その住宅取得の借金返済のため共働きが必要不可欠となるという生活構造をもっているのである。上告人らの居住部分は六畳一間と九畳位のリビングルームのいわゆる一LDKで、そこに家具類としては、テレビ、冷蔵庫、洋服ダンス、整理ダンス、洗たく機位できわめてつつましやかなものであった。
2 上告人ら家計のゆがめられた収支構造
(ア) 上告人ら家庭の昭和四六年中の一年間の家計の月別平均収支は別表一のとおりである。
(イ) 上告人らは夫婦共働き家庭で幼児一人がいるので総評理論生計費(昭和四八年八月基準の生計費以下「総評新理論生計費」という。)のうち二人世帯(夫婦)を基にして、これに職業費を有業人員二名とする修正及び子供分費用の加算を行い、これを各費目毎に東京都区部中分類消費者物価指数を用いて昭和四六年におきなおすと別表二となる(以下これを「総評新理論生計費修正額」という。)。
(ウ) 総評新理論生計費修正額と上告人らの家計とを費目調整のうえ対比すると別表三のとおりで、これによると消費支出合計額はほとんど差はないが、このことから直ちに上告人らの家計において生活に必要なすべてが充足されているものとはいえない。すなわち、その理由は総評新理論生計費修正額においては住宅費及び光熱水道費が二人世帯を基準とする額で子供分を見込んでいないこと、子供経費のうち教養娯楽費が内輪に見積られていること、上告人らの家計費においては共働きに伴う必要経費として光熱水道費(子供の保育を妹に依頼するため部屋を提供しているのでその分の光熱水道費を上告人らが負担している。)及び交際費(家としての交際費には核家族で共働きを維持するための血縁、地縁のネット化の経費が含まれる。)の負担増があるため、被服費に見られるように支出が切り詰められている。
(エ) そこで共働きによる特殊性を消去するため上告人池畑ふ志のが就業しない場合を想定して総評新理論生計費修正額を修正すると別表四のとおりとなるが、この場合の消費支出合計月額一二万二、三七四円は上告人池畑忠男の月額可処分所得(月額収入から税金及び社会保障費を控除した残額)一〇万八、二二八円を超過してしまうので共働きに依拠せざるを得ないことになる。
(オ) 以上のとおり上告人らの家計は収入に規定されるため結局食料費、被服費、保健衛生費、教養娯楽費、及び職業費などが切り詰められ、労働力の再生産は極めて萎縮したものとならざるを得ない水準にあるから、上告人らに対する課税が最低生活費に食いこんでいることは明白である。
従って、仮に本件所得税徴収の各根拠法条が合憲であったとしても右諸条項を上告人らに適用して所得税を徴収した行為は明らかに違憲無効といわねばならない。
二、原審判決は以下述べるとおり理由不備、理由齟齬ないし判決に影響を及ぼすべき法令違背があるから破棄さるべきである。
1 原審判決は本件適用違憲の主張に対して次のとおり判旨している。
「同主張に対する当裁判所の判断は次のとおり付加するほかは原判決六八丁裏一行目から七〇丁表二行目まで(第二の4の(四))に説示するところと同一であるから、ここにこれを引用する。
控訴人らは、控訴人らが共働きであるため見かけの収入は多いが共働きであるがため教養娯楽費、交際費、タクシー及び外食利用による費用等共働きに不可欠な職業費、必要経費的出費が多いうえ老親扶養による支出、住宅取得のための借入金返済があり、本件課税が控訴人らの最低生活費に喰い込んでいることは明らかであると主張する。
各証拠(証拠略)を総合すると、控訴人らの昭和四六年当時における家計は年間の総計で収支が殆んど均衡するという状態であったこと、一般的に共働き世帯の場合収入は非共働き世帯より多くなるが、その反面妻の家庭外就労によって非共働き世帯の場合よりも保育教育費、被服費、交通費、交際費、妻の小遣い、外食費等の支出が増加するため妻の収入がそのまま世帯の純収入の増加につながらず、また共働きの場合税法上は子持ちの単身者と独身者と合体したものとして扱われるためその支出中に所得税の占める割合が非共働き世帯の場合よりも高いことがそれぞれ認められ、他に右認定を左右する証拠はない。
しかしながら、一方前示各証拠によると、控訴人らの場合、交際費、タクシー及び外食利用による費用の支出が共働き世帯としても多いこと、その他持家取得のための借受金返済として年間約五五万二、〇〇〇円、控訴人池畑忠男の親への仕送りとして年間金一二万円をそれぞれ支出していること、また昭和四六年度に控訴人ら両名で通算六回の一泊旅行をしていることが認められ(他に右認定を左右する証拠はない。)、これらの事実に当事者間に争いのない控訴人らの昭和四六年中の給与収入が合計金二七一万六、六一六円で、納付した所得税額が合計金一五万二、一〇〇円であるとの事実を併せ考えるならば、控訴人らの家計がどちらかといえば切り詰められた家計で決してそれ程余裕のある家計とはいえないが、さりとて右程度の所得税の課税により直ちに控訴人らの憲法二五条にいう健康で文化的な最低限度の生活が侵害されたものとは到底認め難い。」
2 ところで、右原審判決が引用している第一審判決の該当部分の要点は
「原告ら家庭の昭和四六年中の月平均収支の内訳は、別表一記載のとおりであること、原告らは昭和四四年に居住用の土地建物を購入し、労働金庫等から合計五五〇万円を借り入れたためその返済及び親への仕送りのために月額約五万二、八〇〇円余りの出費があること、原告らはいわゆる夫婦共働きであるため外食費、交通費等に多くの出費を要することなどが認められ、これらによれば一応原告らは切り詰めた日常生活を営んでいるものと推測される。」
「総理府統計局の家計調査年報(昭和四六年)の「年間収入階級・年間五分位階級別一世帯当たり年平均一か月間の収入と支出」によれば原告らの収入金額は極めて上位(集計世帯数四九六四のうち、上位6.9パーセント以内の階層。因みに年収の平均額は一四三万三、〇〇〇円である。)に位置付けられるし、消費支出額についても全世帯平均消費支出金額の約1.86倍に位置付けられることが認められ、これらによれば原告らから前記程度の所得税を徴収することにより健康で文化的な最低限度の生活が侵害されるものとは認められない」とし、また、「原告らが主張する総評新理論生計費修正額は総評新理論生計費とその性格を同じくするものであることはその主張自体から明らかであるから最低生計費の基準たりえない。」というものである。
3 右にみるとおり、第一審判決並に原審判決はともに一応は現実の上告人らの生活の内実は「切り詰めた日常生活を営んでいる」「どちらかといえば切り詰められた家計で決してそれ程余裕のある家計とはいえない」のであって、健康で文化的な生活からはゆがめられたささやかなものにすぎないことを認めている。
第一審判決では右のような実態に眼を向けながらも家計調査の数字との見かけ上の比較にまどわされて、結論として上告人らの適用違憲の主張を性急に排斥している。
しかし、この見かけの収入の多さは、共働きであるからこそである。共働き世帯の収入が、非共働き世帯の収入に比べて、五割以上多くなることはつとに知らているところである。反面、妻の家庭外就労によって、外食費、保育教育費、被服費等の家庭内労働を社会的に代替することによって生ずる支出増、女子用洋服、交通費、労働組合関係費、妻のこづかい等就労のための必要経費的支出増、その他就労によって強制される所得税、社会保障費等の支出増や、土地家屋等の借金の返済等の出費の増大にみられる、労働力再生産費の増加は妻の就労による非共働き世帯との実収入差の八〇パーセントを超えるものといわれている。更に親への仕送り等の必要から、妻の就労は多くの場合共働き世帯には経済的に不可欠になっている場合が多いのである。従って、共働き夫婦の場合見かけの所得が勤労世帯の上位に属することをもって直ちに最低生活費を侵害していないと結論づけることは誤りといわなければならない。
この点では原審判決は前摘示のとおり上告人らの右主張を一般論としては是認する判示をしている。
家計調査を共働き世帯と比較してみることの不当性について付言しておく。
(一) 共働き世帯の特質
共働き世帯の特質を要約してみると次の点が指摘できる。
① 実収入は非共働きより五〜六割大である。これに占める妻収入は五割弱で、収入の半分を担うと言う意味で不可欠のものとなっている。
② 共働き世帯の世帯主収入は、非共働き世帯より下廻る傾向があり、且つ親への仕送り等の出費が余儀なくされている事情の者が多い等から妻の就業は不可欠である。
③ 夫妻二人の収入を合算することによって、実収入は大となるが、これに加え実収入以外の収入(貯金取崩し等)も大である。このため共働き家計の収支規模は非共働きより約4割、時には7割も大きい。
④ 支出面では消費支出中の雑費、非消費支出(税等)、実支出以外の支出が大である。
⑤ 雑費支出を増大させるのは、教育・保育関連費をはじめとする、いわゆる共働き経費と老親の扶養費であり、生活のゆとりを示すものではない。
⑥ 実支出以外の支出は主として持家関連費と、将来の消費のための貯えであるから、これもゆとりではなくむしろ“私的生活防衛”費と做すべきものである。
⑦ 共働きによって得られる収入増のうち、その過半は妻の労働力化に伴う強制的・必需的支出に当てなければならない。残余は私的生活防衛費に当てられ、現在の生活水準向上、ゆとり的支出に回される部分は極めてわずかである。そして、こうした共働き世帯の特質は妻が常勤者でないパート内職家計とは全く異った特質を持っており、妻が常勤労働者であるために強制される支出増及び必需的な支出増(別表の)は非共働きとの実収入差の45.4%を占める。つまり実収入増の約半分はこのための直接的経費となってしまうのである。そして共働き世帯の支出の特徴として大きなウエイトを占める住宅借金返済や親への仕送り、保育関連費などのため、財産売却や貯金取崩しを行なわざるをえず、多額のこうした支出によって萎縮させられ不安定な構造となってしまっているのが実情である。別表五ではゆとり的支出といえるの部分は収入増のわずか7.6%にしかすぎず、これに貯蓄を加えても29.5%にすぎない。即ち、七〇〜八〇%は強制的支出となる構造的特質をもっているのである。しかも共働き世帯の家計規模、支出内容は共働き世帯の年令、世帯構成、共働きを可能にする条件の差異に応じて様々に姿態変換する特質をももっていることに注意されなければならない。上告人らの場合には右よりもなお厳しく、ゆとり的支出はほとんどみられないといっても過言でなく、貯蓄どころか、結婚前のささやかな貯蓄の取崩しによって不足を埋めているのが実情となっている。
(二) このような特質を持っている共働き世帯の家計を家計調査と単純に比較して論ずることはできない。
第一に家計調査の捕捉率の点である。家計調査が帳簿づけを前提とするため、調査対象からみても生活時間に余裕のない共働き世帯が調査対象になる率は少ない。また、内容的な捕捉率からみても、我国の場合のように、主たる家計担当者一人(主婦)の記帳にたよる際の捕捉率はかなり低まらざるをえない。小沼正氏の論文では英国の例によって「平均して主婦は世帯総支出の五〇%をやや上廻る額について責任を負っているにすぎない」といわれているし収入の捕捉についても同様の問題がある。
第二に、個々の支出費目の出現率と平均値との関係からくる問題である。
家計調査の数値は平均値であるから、個別世帯の側からみればどの世帯にとっても非現実的なものとならざるをえない。或る家計にとっては必需的な支出であっても、他の家計には全く不用な支出はいくらでもありうる。だから当該世帯にとって如何に多額なものであれ、平均化された値は全く非現実的なものとなる。
特に上告人らのような共働き世帯にあっては、共働きに必需的諸費用は、家計調査に較べ極めて高くならざるをえない。何故なら共働きに固有な必需的支出は出現率が少ないため、平均値は小となり非現実的数値とならざるをえないからである。
第三に、共働き家計の規模の分散の大きさの問題である。共働き世帯だけをとり出し、その収支額を平均化したならば、上告人家計との比較は可能かといえば、これにも難点がある。こうすれば確かに大多数が非共働きである世帯の平均と較べれば、はるかに現実に近い値にはなろう。しかしこれとても①共働き家計の規模の分散の大きさから来る非現実性及び②共働きを可能とさせるための社会的諸条件の未整備から来る共働き条件の“私的やりくり”の多様さからして非現実的な値とならざるをえない。
フルタイマーとパートタイマー・内職等々で異なり、職種や身分上の地位等によっても異なり、平均値はやはり非現実的なものとならざるをえない。また支出費目についても、共働きのため社会的条件の不備を私的なやりくりで解消するため家計費目のどこにその支出がゆくか個別に変化する度合が大きい。
例えば上告人世帯では保育条件と妻の就業条件とが合わないため、二重保育を要し、しかもその費用が妹夫妻を住まわせるための住宅費や光熱水費の形をとってあらわれること、さらに住宅費が消費支出としての家賃とはならず、あれこれの条件を満たす手段としての持家費用・実支出以外の支出・借金返済として出て来ざるをえないと言う事実である。
以上の諸点からして、共働き世帯の個々の収入および支出額を家計調査結果と直接比較することは、ほとんど無意味とすら言える程の難点をもつ。従って第四に、家計調査の有業人員1.54人を機械的に二人に換算して比較してみても共働きによる必要経費増をみることはできない。
確かに家計調査の有業人員は1.54人で有業人員数だけでみれば上告人との差は0.46人にすぎない。しかしここで問題とすべきは妻(主婦)が有業か否か、さらにその就業形態が常勤かパート・内職かについてである。
妻が常勤労働者である共働き世帯の支出増には、大別して二様の性格のものが含まれている。一つは家庭生活上の最低限の必要すらやむを得ず外部化するために生ずる代替的支出増であり、いま一つは二人の常勤労働者がその職業を維持するのに直接必要となる費用による支出増である。
一方、同じく妻が就業している、収入がある世帯と言っても、それがパートタイマーであったり内職であったりする場合その家計実態は常勤労働者とは大きく異なる。
家計調査の有業人員1.54人世帯は、妻以外の家族員が有業であるか、或いは妻が有業であってもその収入は夫の賃金からの配偶者控除と扶養控除対象となる。つまり前記二様の支出増を伴わない程度のものである。
このような例をもって原告家計との比較を行い、有業人員の差が0.46人だとか、原告家計の支出増を共働きによる支出増ではないとする論拠となすことは出来ない。
4 ところで、原審判決は上告人世帯は収支が殆んど均衡するという状態で、共働き世帯は収入は多くなるが、妻の収入がそのまま世帯の純収入の増加につながらず、且つ、税金も割高になっているとしながらも、①交際費、タクシー及び外食利用による費用の支出が共働き世帯としても多い。②持家取得のための借受金返済が年間約五五二、〇〇〇円ある。③親への仕送りも年間一二万円している。④両名で通算六回の一泊旅行をしている。そして、一方二七一万六、六一六円の中から納付した所得税額は合計金一五万二、一〇〇円であるからこれらを併せ考えるならば健康で文化的な最低限度の生活が侵害されたものとは到底認められないというのである。
しかしながら、右の①②③④の各支出が余裕があるための支出ではなく、上告人世帯にとっては必要不可欠な支出であったことは各証拠から明らかであり、逆にこれに反する何らの証拠もない。従ってこれらの支出があったことをもって一五万二、一〇〇円の税額が原告らの生活を侵害していない理由とすることはできないはずである。
これらの点につき明らかにする意味で前述した上告人の生活実態を踏まえて、その支出構造の特徴を述べる。
(一) 上告人家計の支出構造の特徴
(1) 上告人らの家計支出は一つの典型的な共働き家計の構造を示している。その集中的な表現として雑費費目支出の大きさにある。まずこの点についてみてみる。
雑費は生存にとって最も基本的な支出たる食住衣支出に較べれば、副次的支出とも言えようが決してなくても済む支出とは言えない。加えて共働き家計に特有の支出増の多くは、雑費支出に含まれるから、どうしても雑費支出が増大せざるをえない。
(2) 教養娯楽費・交際費等の支出増
上告人家計の教養娯楽費は、たしかに家計調査の2.34倍の額である。しかしこの中味は職場のサークル活動としてのけいこごとの月謝と子の保育園行事として観劇代等が主たる支出である。前者は労働力消費過程の支出に分類すべき一種の職業費である。一mmの1/一〇〇〜1/一〇〇〇の精度を求められる労働は、仲間との緊密な連帯なしに達成することは出来ず、サークル活動や組合活動もその一環である。又後者は、子の成長発達にも重大なかかわりを持つ保育園行事への参加費であり、共働きには欠かせない保育関連費とも做すべき性格のものである。
交際費もまた家計調査の2.97倍に達している。
この支出増の原因の第一は夫妻ともども職場の仲間との親密な交際を重ねる必要があるところから来ている。まして夫は労組役員であるから、その必要も大きい。極度の細密性を要する労働、そのためのチームワークの保持のためには、仲間同志の冠婚葬祭時のつきあい、日常のつきあいは不可欠であり、また、同一職場に働く夫婦だからと言ってこれら費用は夫が出したから妻は出さないと言って済むものではない。
交際費支出増の第二は子の保育に関連している。子を保育園に入れているため、そこでの親同士のつきあい及び二重保育をしてもらっている妹夫婦とのつきあい、妹の都合の悪い時に二重保育をたのむ近所の主婦とのつきあい等々、保育に関連しての人的ネットワークが不可欠であるための費用である。
交際費支出増の第三は近隣との関係で発生する。共働きを続けるためには、日頃の何がなしの近隣関係の保持が不可欠である。しかもここでの支出は近所の主婦達と数年間旅行資金の積立てを行ない、この年それの実現をみた町内会旅行費用であるにすぎない。
交際費支出増の第五は血縁関係の交際による。妹夫婦と同居であるため、妹の所へ来た客との交際も一定の支出増となる。加えて夫の両親が病身で別居しているため、そことの交流の支出増がある。 このように見て来ると、教養娯楽費、交際費の支出増は、夫妻が労働力として実現するために不可欠な職業費、必要経費的性格が非常に色濃く出ているのであり、いわゆる生活水準の向上とはかけ離れた支出である。そして、右性格をもつもの以外ではレジャー・交際費の支出はなされておらず、家族だけでの旅行は行なっていない。職場での慶弔費も最少限度の額で、しかも職場の慣行上支出しないでおくことのできない性格のものであることは本人尋問の結果にあきらかなとおりである。
(3) タクシー、外食利用について
原審判決は共働き世帯としてもタクシー利用回数が多いという。また、タクシーについてはその利用回数の多さと、利用の方法・利用が主に土日に集中している点、交際費支出も同じく土日に集中している点が共働きのためのやむをえざる支出増とは做し難いと被上告人側は主張する。
しかし前述したような生活条件の下で夫妻が常勤労働者としての生活を持続させるためには、これらの支出も又不可欠でありそれが土日に集中するのも当然なのである。
主たる家事担当者たる妻は、早朝の一時間余と夕方の五時三〇分以降しかそれに当てる時間がない。もより駅から自宅まではバスに乗るしかないが、これは一時間に一本の割でしか通っていない。となれば子を寝せるまでに二時間余しかない妻は、定期バスを逃せばタクシーを利用してでも一刻も早く帰宅しなければならないのは当然である。明日も七時に出勤しなければならないのだから、子供の世話や家事をやり終えぬからと明日に残す訳にはいかない。限られた時間帯の中で必要な行為のすべてを終らせなければならない。まさに時間との競走なのである。一日一日がこのように過ぎるから、職場を去ったり、別の職場に移ったりした同僚友人との交際は土日に集中する。又土日は週日に果せない様々な家事(布団干し、大きな洗濯物、家の片づけ、買い物等々)もしなければならない。三歳の幼児を持ち、限られた時間帯(例えば日照のあるうちにとりこまねばならぬ干し物のとりこみ等)に片づけねばならぬ家事を沢山かかえていれば、外出先からの帰途土日のタクシー利用も又やむを得ない。共働きに伴う家事、交際等は、労働日である週日と土日との或いは大きな買い物等は月給日との関係で月単位で等々の組み合わせによって果され、サイクルを持っているからである。
ちなみに“時間との競走”の実態は、調理に如実にあらわれている。その第一は夕食の調理に鍋物それも冬場であれば最も安価のタラチリ鍋等がほぼ週に一回は出てくるし、また焼きトリ、練り物、サシミ等調理済食品の比重も非常に多い。買って来てすぐテーブルに並べられるもの……サシミなどもこの例(ぜいたくなのではなく、一種の調理済食品として採用される)、又は鍋もののように調理=食事と言う形式をとれるものである。その第二が外食である。これもまさにぜいたくなのではなく、一にかかって調理時間の短縮・即度性こそが眼目の消費なのである。
(4) 老親の扶養について
原審判決は老親への仕送りを上告人世帯の余裕であるかの如くに取扱い税負担が最低生活を侵害していない根拠の一つにあげている。老親への仕送り金23.1万円は雑費中の21.0%を占め消費支出中の11.4%にも達する額である。国側の論拠たる家計調査平均では、仕送り金は消費支出のわずか1.7%にしか達していない。
上告人らの家計ばかりでなく共働き家計には、この老親への仕送りが非常に大きなウエイトを占める傾向がある。
前述のとおり、切りつめた生活でありながら、貯蓄もできず独身時代に蓄えたわずかな貯金を取崩して不足にあてているのが実情となっているのである。実際には、共働き家計の多くが示すように、このような親への仕送り扶養が、現役労働家計をおびやかしているのである。本来これは扶養であるから課税上控除されてしかるべき性格の支出である。
即ち、交通事故により障害を受けている老親への扶養のための仕送りは、本来なら扶養控除として税法上所得控除されてよいはずの支出であり、たまたま両親と同居しうる条件にないために上告人世帯では税法上扶養家族となりにくく、扶養控除をされないでいるにすぎない。従ってこれをもって税負担の余裕がある理由とすることはできないはずのものである。
(5) 以上みてきたように、上告人らの家計のみかけの支出の大きさは、決して生活の余裕を示すものではない。衣食もきわめてきりつめられた内容でしかない。持家ではあるが、ささやかなもので、しかもこれは親への仕送りという公的扶養・社会保障の不備欠如からくる私的扶養の必要性および安価な通勤の便のいい公共住宅が極めて入居困難な状態にみられるように、政府の住宅政策の貧困(持家政策)と社会保障の不備からくる将来の生活不安が賃労働者を日々の生活を犠牲にした持家取得にかりたててきている現状のなかで、上告人らも持家なくしては共働きもできず、親への仕送りもできないというジレンマの中でのものであり、そのためまたぎりぎりの生活を余儀なくされてきているのである。従って住宅ローンの支払をしていることを税負担の余裕をみとめる根拠とする原審判決の理由は誤っている。
国は上告人らの家計のやりくりの苦しさをしいて見ようとすれば、住宅取得に伴う借入金返済があろうが、もともとこれは預貯金と同視されるものであるから、これをもって消費が矮小化しているとは言えないとしている。
上告人らの実支出以外の支出・住宅借金返済は、年収の20.3%にも達する額である。従来実支出以外の支出は、当月又は当年の消費支出を支出した後の残りがこれに廻されると考えられて来た。しかし昨今の一般的状況・社会的諸制度の欠除による自助の強制は、現在及び将来の生活保障を私的に準備しなければならなくしている。したがって労働者は、今日の消費を必要水準以下に抑えてでも、この支出に当てなければならない。しかも住宅借金返済は、一度決意し借入れると多額且つ長期に最優先させなければならぬものとなる。まして上告人の場合、老親への多額の仕送りが課せられ、共働きが不可欠であり、朝八時の始業に間に合わせるべく職場に出来るだけ近い所に住居を求めなければならない。幼児がいても入居可能な住宅となれば選択は持家化の方向しかなかったのである。
このような意味において、この実支出以外の支出は、生活のゆとりではなく、まさに強迫的支出であるといわなければならない。
5 原審判決が引用する第一審判決は総評理論生計費を基礎にこれを修正して、池畑家の家計構造の歪みを明らかにした宮崎証言に基く上告人の主張に対して、総評理論生計費そのものが将来の目標たりえても最低生活費の基準値たりえないことを理由として主張自体失当とする。しかしながら、総評理論生計費が時代にかけ離れたものでなかったことはその後の推移からみて明らかなことは既に主張してきたとおりであり、しかも修正の基礎とした数字は共働き世帯でない二人世帯を基礎としてひかえめな子供経費を加算したものにすぎず若干の共働き世帯からくる支出の特徴を考慮したうえで、論証しようとしたものであって、その数値は決して過大なものとはなっていない。もし、この数値を排斥しようとするならば、何が最低生活費なのかを明らかにすべきである。そして、実際の上告人らの支出がどの点でゆとりがあるといえるのかが示されなければならないであろう。しかし、現実には、ささやかなきりつめられた生活を余儀なくされているのである。そして前述のとおり、小林証人の証言によって明らかになったように、共働き世帯における家計支出の特質からみれば宮崎証人の意図したところはむしろ極めてひかえめなものであるといえよう。
三、上告人ら共働き世帯に対する本件課税はその特質を考慮せず割高な課税をされているのであるから憲法一四条に違反している。
1 共働き世帯の課税構造は子持ちの単身者と独身者の合成にしかすぎず、右のような共働き世帯の特質を考慮した課税最低限として定められていないのである。そして共働き世帯に応々にしてみられる親への仕送りも、その内実は多くは扶養費として不可欠の支出であるが、同居していない者に対するものであるため、本来扶養控除されるべきものがその適用をうけられないまま、見かけ上の雑費支出としてその消費支出を増加させているものである。従って、これらが課税最低限における控除として考慮されていない事態にあっては違憲の誤りをまぬがれないというべきである。
また、原審判決も、本件課税が割高なものである点では次のとおり述べている。
「一般的に共働き世帯の場合収入は非共働き世帯より多くなるが、その反面妻の家庭外就労によって非共働き世帯の場合よりも保育教育費、被服費、交通費、交際費、妻の小遣い、外食費等の支出が増加するため妻の収入がそのまま世帯の純収入の増加につながらず、また共働きの場合税法上は子持ちの単身者と独身者の合体したものとして扱われるためその支出中に所得税の占める割合が非共働き世帯の場合よりも高いことがそれぞれ認められ、他に右認定を左右する証拠はない。」
2 右事実をもってすれば、上告人らに対する本件課税は共働き世帯の担税力の低さを考慮したものとなっていないのであるから、課税にあたっては担税力を考慮して実質的な平等をはかるべき憲法一四条の精神に反するものであり、結局上告人らになした本件課税は違憲無効といわなければならない。<編注・前掲表>第四 給与所得に対する源泉徴収制度の違憲性
一、憲法一四条違反
原判決は、給与所得者に対する源泉徴収義務を定めた、所得税法一八三条ないし一八八条、一九〇条、一九二条の諸規定は、憲法一四条に反しないとする。しかし源泉徴収制度が次の諸点で申告納税と異ることは原審を認めるところである。
1 申告納税権を保障しない不合理性
所得税法所定の収入・経費・控除額等の各種金額は、暦年終了時、即ち毎年一二月三一日午後一二時に確定しこれによって納税義務が成立する。事業所得や不動産所得などの一般の所得については、このような納税義務が成立した後、翌年の二月一六日から三月一五日までの間に、自ら確定申告することにより税額が確定し、納税も右期間内にすれば足りる。確定申告に対し税務署長による違法な更正収分等があった場合には、納税義務者には、これに対し異議申立及び審査請求並びに訴えの提起等の不服申立手段が保障されている。
しかるに、給与所得者の場合は、年間所得額が未確定であり、従って納税義務が未成立であるのに、給与の支払を受ける都度支払者が所得税額を一方的に給与額から天引し、翌月の一〇日までに国に納付している。このため本来の納税義務者である給与所得者は納税義務の成立以前に源泉徴収による天引を強いられるのである。そして右法律の規定は、給与所得税の納税義務者である給与の支払を受ける者に対する関係では、納税義務の成立とその確定を規定したものではない。給与所得者は単に「課税の客体」としてのみ扱われているにすぎないのである。これは正に後に述べるように昭和一五年成立という「戦時立法」であったためであり、現在そのまま適用することこそ問題なのである。このような「戦時立法」であるから、この制度は民意の昂揚を恐れ、これを抑える目的も持っていた。自主的な申告納税方式は、国民の税に対する関心を昂め、これによって国民の国政参加意識を高める機能をもっている。このように給与の源泉徴収制度は、国民の税に対する関心を高めるという重要な民主社会の要請に反し、給与所得者を他の一般の所得税の納税義務者と差別して納税者の知る(参加する)権利を奪うものである。また給与所得者を申告納税制度から除外し差別していることおよび納税者の主権を無視して単なる税の客体とみていることは、この一事をもっても憲法一四条に反すると言わなければならない。
原審及び一審判決は、かかる租税手続における国民主権の発展の歴史を見ず単に、その「納税者意識」は各個人の「意欲にかかわる面が多く」と個人の問題に解消している。しかしここで上告人らが問題にしているのは、各個人の意欲の問題以前の「制度」としての「不合理性」「差異」を問題にしているのであって、原判決はこの点を正しく認識しなかったものであって破棄を免れない。
2 不服申立権の欠如
一審判決(原判決もそのまま引用)は、給与所得者は早期徴収され、確定申告に基づく納税という手続上の権利と権利救済制度である不服申立権を奪うことは一般の所得税の納税義務者と比較して甚だしく不利益かつ不平等に待遇するものであるという主張に対し、(1)源泉徴収の場合には受給者の負う本来の所得税納税義務(所得税法第五条一項による義務)が成立する以前、それ故に数額等の内容が確定する以前において源泉徴収されることとなること自体は否定できない、としながら源泉徴収制度が合理的なものであるから何ら違法性はないと判示し、不服申立権についても、源泉徴収の関係においては給与所得者に対し具体的行政処分というものは行われないので、不服申立制度がないのはやむを得ないところであるとし、実質的側面からみても(イ)源泉徴収義務者と源泉納税義務者との関係は私法上の債権債務関係であるから、右両者間の計算誤りは賃金債権の債務不履行や源泉納税義務の存否等により解決でき、(ロ)国と源泉納税義務者間では、国に対して不当利得返還の訴を提起しうる余地がある、(ハ)年末調整以前の過不足徴収は年末調整で是正されるので、形式上も実質上も不利益取扱を受けているとはいえないと判断した。しかし歴年終了前に、即ち一般所得税の納税義務者と比較してそれ以前に徴収することに何らの合理性もないことは後述のとおりであるし、かつ右判決理由は、次の諸事実を考えるとき、説得的でなく、やはり憲法一四条に反することは争う余地がないものである。
(一) 上告人らは、源泉徴収されることが行政処分なのに、それについて不服申立権が存在しないことを不平等であると主張しているものでは全くない。逆に行政処分も存在しないのに、給与受給者が源泉徴収義務の対象者とされる結果、反射的に徴収を受忍しなければならない立場に立たされる法の規定そのものが第一の問題であると主張してきたのである。原判決は、一般訴訟法による救済が論理的に可能だから不合理ではないというが、逆に申告納税をする者は自らの意図で申告した金額と異る納税の義務の確定には行政処分が必要であり、また申告そのものの数額が過大である誤りを自ら発覚すれば更生の請求(国税通則法二三条)を行い、税務署長がこの更生の請求を認めなければ不服申立制度(異議申立、審査請求等)が働くことになっている(因みに更生の請求それ自体は行政処分ではないこと勿論である)。則ち、このように申告納税制度の場合は実質的に税務当局に自ら反省し考慮する機会を与え、かつ容易に解決できる手続を用意しているのに対し、源泉徴収される給与所得者は全くかかる制度の活用ができない立場に立たされていること自体が不平等と主張しているのである。
原判決は論理をすりかえているのであって、理由そごの結果を招来せしめている。
(二) 仮に原審(一審)の述べるとおりとしても、その実質的救済手続が実際上充分に機能できるかも憲法一四条の不合理か否かの判断には検討を欠かせないものであろう。
(1) 原判決は一般争訟で解決できるという。しかし給与支給者と一般的にはその従業者である受給者間に争いごとをおこせるだろうか。それも誤りが数万円時には数百円の場合のときにである。最終的には訴訟という「金と暇」のかかる手段によって、数万円、数千円の誤差を争うことはあり得ないといってよい。現代の国税の不服申立制度は、大量処理と、金と暇のかかる訴訟を減少させることを目的として、容易に納税者の権利救済をはかる目的で設けられたものである。それが、従属的地位にいる者が雇主相手に訴訟を起こし、専門的知識が必要なため訴訟代理人を立ててやるということは現実的にありえないことである。
(2) 第二に源泉徴収義務者は民間一般企業、中小企業、個人事業者が多いため常に倒産の危険を負っていることである。経営内容が悪化した場合、運用できる資金はすべて運転資金に回され使われることが多い。特に従業員から源泉徴収した税金について、納付の特例を受ければ、六ケ月間の税金をまとめて納付することが認められているため、中小企業ではこの特例を受けている者が多く、この源泉徴収され累積されている税金が使用され、その内に倒産するなどの悲劇が多い。かかる場合帳簿は散逸し、従業員が倒産までに毎月いくら徴収され、各人の分が税務署にいくら納付になっていたのか証明できるものが断片的にしかなかったり、全くなかったりしてしまう。税務署では、各企業ごとの総体的金額と総人員がわかるにすぎず、各給与所得者がいくら源泉徴収されているのかは不明である。そのため倒産・失業した給与所得者などは、年間をトータルした場合税金が多く徴収されたことが明らかであるのにその証明手段もなく、返還請求する相手もいないし、また税務署に納付していないため不当利得の返還も受けられない結果となったり、運よく税務署に事業者が納付していたとしても源泉徴収票も出ずにその個人が多く支払いすぎになっているという証明もできない結果となっている。訴訟でも起せば証人等により立証可能かもしれないが、わずか数万円の金で訴訟を起すことはあり得ないことはすでにのべたとおりである。このような例は、決して稀ではない。現在国はかかる不都合を意図的に放置して、不当利得をしているといっても過言ではないのである。上告人の右の主張に対し、原判決は、右のような事は事実上のものであるから、憲法一四条に反するとまでは言えない、と述べている。上告人らは、右のような事情が即憲法一四条違反と述べているものでは全くない。給与所得者の不服申立権が他の事業所得者のように整備されていない結果右のような事態に直面させられ、より一層の不利益を実際上も受ける結果になっていることを述べているのである。結局原審の認定は、この源泉徴収制度の現実に機能している実態を見ない空論であるとのそしりを免れないものである。
(三) 法論理的にも一審及び原審の判断は誤っている。
北野教授はこの点について次のように述べている。
「毎月の源泉所得税額は実定税法的にはその者の年税としての所得税額とは別個の納税義務関係を構成する。毎月の源泉徴収も税法の諸規定に従って厳格に行なわれなければならず、もし、源泉徴収義務者が税法の諸規定に違反して源泉徴収を行った場合には当該源泉徴収行為それ自体が年税としての所得税額とは関係なく独立して違法となるのである。それゆえ、源泉納税義務者(給与所得者)のためにその毎月の源泉徴収行為それ自体に対する不服申立て制度が税法自体において用意されていなければならない。わが税法は源泉徴収の法律関係についてはもっぱら徴税の手段としてとらえ、これをそのような徴税手続法的視角から構成している。源泉徴収の法律関係を、本来の納税者である源泉納税義務者(給与所得者)の法的地位を主体的にとらえようとする、いわば実体法的視角からは構成していない。つまり現行税法は本来の納税者である源泉納税義務者の権利関係には配慮していない。現行制度のもとにおいても裁判所も指摘するような救済の余地もないわけではないが、これは給与所得者の本来的な不服申立て制度とはいえない。やはり源泉徴収の段階において源泉納税義務者(給与所得者)に対して独自の、固有の権利救済制度が用意されていなければならない。現行源泉徴収制度がこのような重要な権利救済制度を欠いていることは現行源泉徴収制度の法的評価において看過しえない一つの論点を構成するといわねばならないであろう」(甲四四号証・北野証言参照)。
つまり、現行税法は本来の納税者である給与受給者の権利関係には配慮していないのである。原判決の述べる一般法的救済は、その実効性もなければ、また給与所得者本来の不服申立ての制度とはいえないのである。やはり源泉徴収の段階において、給与所得者に独自の、固有の権利救済制度が用意されねばならない。現行制度がこのような重要な権利救済制度を欠いていることは、この制度の法的評価において重大な欠陥として考えざるを得ないのである。
3 納税緩和措置の不備
この点に関し、北野証人は適切にも次のとおり述べている。
「源泉徴収の段階における納税緩和措置の不備も看過しえないと考えている。申告納税者の場合にはその申告納税額の納付について、国税通則法および国税徴収法においてさまざまな納税緩和措置の適用を受けることができることになっている。この点、給与所得者の場合にはわずかに所得税法一九二条二項に規定する徴収繰延措置があるにとどまる。しかも、右措置はその要件からいって通例、ほとんど利用できないものとなっている。給与所得者は自己の諸事情のいかんにかかわらず一方的に税の天引きの強制を受忍しなければならないことになっている。
これによる申告納税者との間の不均衡は法的には重要である。
なお、給与所得者には源泉徴収により早期納税という不利益が存在するのであるが、この点については裁判所は申告納税者にも予定納税制度が存在すること。その利子相当分について給与所得控除制度において配慮がなされていることを指摘している。このようにいって裁判所としては申告納税者に比して著しい不利益が存在するとはいえないとしているわけである。筆者としてむしろ、右に指摘した納税緩和措置の不備による不均衡のほうが重要であると考えている。」
右の納税緩和措置の不備について原判決は、徴税の「確実性の面」から、給与所得者と事業所得者等との間に制度上若干の差異があったとしてもやむを得ない、とする。しかし原判決の「徴税の確実性」からというのが、源泉徴収制と申告納税方式間にいかに差異があるのか全く不明である。徴税の確実性から納税緩和措置をみるなら、逆に申告納税者に少なく、給与所得者に緩くすべきではないであろうか。また決して若干の差ではなく、経済活動の分野からすれば大へん大きな有利・不利が生ずるものであるし、現に生じているものでもある。
以上の外、早期納税による不利益について、原判決(一審判決を引用)は予定納税と対比しているが、それでも、予定納税は一定限度額以上であることや、延納措置があることなどを考慮するとき、不合理な差別を解消するものでない。
以上のように、原審の形式的、実質的理由は、法論理的にも、現実の運用面からでも肯認することができるものは一つもない。
いかに国が現行源泉徴収制度を合理化しようとしても、全体的にも、個別的にも大きな不合理な差別を給与受給者が負っていることは明白という外はない。
以上のように、前記所得税法の条項にもとずく上告人らからの所得税の徴収は、憲法一四条に違反し、無効である。
二、給与所得者と他の事業所得者等と差別することに合理的理由は存しない。
1 徴収の便宜と徴税費の減少
原判決は、給与所得者である納税者は、極めて膨大で、所得発生の環境も千差万別であるから、源泉徴収制度は能率的、合理的と認定する。
(一) しかし一審の認定は、大衆課税を不可避の前提としている。少なくとも課税最低限を妥当な金額まで引上げ、前述のように年間所得を二〇〇万円なり三〇〇万円なりで切れば、その納税人員は現在の二〇〜三〇%に減少することはのちにのべるとおりである。現行のように最低生活費にも課税するような大衆課税を前提として原審のように認定すること自体が誤りである。
原判決は更に、右のように引上げることは国家財政に直接影響あるから、費用の面からのみ引上げることはできないとする。しかしこの考えは、発想が逆転している。一人の納税の一円でも、国家財政に直接影響あるのは当然なのである。直接影響あるから動かせないというなら、税制については、増税の方向でしか、訴訟も何もできないことになる。個人の生存権までもおびやかすような課税最低限の設定は、個人の基本的人権に対する国家権力による侵害であるとする視点が欠如しているのではないであろうか。上告人はこのような見地から課税最低限を設定すれば、源泉徴収の人員も減少することを説いているのである。
(二) しかもドイツなどでは、給与所得の納税人員も「膨大」で、かつ「給与所得発生の環境も千差万別であるが」選択的に申告納税制度を認めており、それがために何らの問題も発生していない。つまり膨大な納税者の数は、それを減少させることも可能であるし、仮に現状のままであっても源泉徴収制度を継続させなければならない必然性は存在しないということである。申告納税制度との併用(選択性)によっても、またフランスのように源泉徴収制度を採用しなくても、所得を正確に把握することが可能であるし、徴収も確保され、歳入の面でも特に不都合を生じていないし、徴税費が増加して納税者の税金を高くしなければならなくなったなどということは寡聞にして知らない。原審の認定は実際を知らない机上の空論である。原判決は、国によって歴史的・風俗・習慣等がことなるから、欧米諸国がそうだから、日本でもそうなるとは限らないと説く。しかし、これこそ空論であって説得性に欠ける。このような言い分では反論の仕様がない。逆に言えば、日本では、どのような差異があり、欧米諸国とどこが異るかを明らかにされるべきである。上告人は日本では、欧米にくらべて「より費用も少なく円滑」に進むものと考えるからである。
(三) 後述のように租税原則には国の徴収の便宜という原則は存在しない。しかし原判決は他方では納税者にとっても便宜があるということを述べる。即ち、(イ)申告・納付等の繁雑な手続からの解放と、(ロ)一時に多額の納税資金を用意する必要がないと判断している。
しかし、この訴訟の原告も含めて、総評傘下の組合員の多くは申告・納付等を自らの手で行いたいという希望をもって運動している。このように自らその手続を行いたいといっている者に対して、その手続をとらせないことが「便宜」の原則の表れということになるものであろうか。決してそうではあるまい。そしてこのことが納税者の権利意識を後退させていることもすでに述べたとおりなのであって許されることではない。少なくとも、納税者が自ら申告をしたいと申出があった場合、源泉徴収をすべきではなく、申告納税方式がとられるようにしなければならない。
また一時に多額の納税資金が必要となるとするが、しかし、それは翌年三月一五日までに用意すればよいのである。現在のようにその都度天引されてしまうことが翌年三月一五日までに用意するのよりも便宜であると断定できまい。逆に上告人らは、本来なら翌年三月一五日までに金を用意して納付すればよく、便にそれができない場合には納税猶予制度が準備され多く活用されているのに、その前年の内に毎月給料日に天引されてしまって、その間の資金の運用の利益が奪われているのであり、他の納税者と比較して不公平だと主張しているのであって、原判決のあげる利点は実は短所と認定しなければならないものである。
(四) 原審は更に国に対する歳入の「平準化」をはかる長所をあげる。
しかし、これもすでに述べているように、欧米諸国のように源泉徴収か申告納税かの選択性を日本に導入しても、また完全に給与所得者に対する源泉徴収制度を廃止しても、結局申告納税者には予定納税(所得税法一〇四条以下)の制度があるのであって、歳入の平準化をさまたげるものではない。この点も原判決のように申告納税制度と対比して長所としてあげられるものではない。
(五) 結局以上のように検討すると、源泉徴収制度の長所として最後に残るのは、徴税費の大巾な「節減」を図ることが可能であるというところであろう。
しかし、この長所もすでに租税法律主義の項で述べるとおり、(イ)課税最低限の線の引き方によって、納税者数そのものが大巾に減少することになるのであり、そのような対策によってほとんど問題が解決されるものであること、(ロ)源泉徴収を申告納税制に変えても、徴税費が増加した事実は、欧米諸国でもほとんどきかないし、源泉徴収制度をとってなく、かつ給与所得者に対する課税を行っている諸国でも特に徴税費が増加して困難に面している事実はないこと、(ハ)日本の場合徴税費の「大巾な節減」は、節減ではなく実は徴税費の転嫁であることを見逃している。本来計算は納税者がすべきであるのに給与支払者がこれをなし、徴税の手続は税務署が負担すべきであるのにこれも給与支給者に負担させているのである。これは戦前において徴収手数料的な「代償」が支払われていた事実を考え合せるとき明白である。国の徴税費の軽減は結局会社等の負担に転化されているのであって、徴税費というとき、国庫の支出だけを考慮しがちであるが、本来はもっと広く社会的経費という考えで把まえるべきであって、かかる見地からすると会社などの負担は大きく決して「大巾な軽減」などにはなっていない。逆に余分な負担・経費がかかる面も無視し得ない。けだし税務職員などが事務処理する場合は、大量処理が可能であり、かつ処理する人も一応の能力・経験を備えた者であるため早く処理でき経済的である面があるのに、会社等の場合、税務の知識のない者が、慣れない税金を手引と照し合せながらの計算するなど、決して容易なものではない。そのための事務費、人件費などまた最近はコンピューターなどによる処理も行なわれているが、その費用は膨大である。
原判決は「徴税費用が主として給与支払者の負担となっていることは望ましい事態とはいえない」としながらも、徴収した税金を納付期限まで利用することが出来るから、メリットが全くないわけでない、とする。しかし右議論は論争点のすりかえであって許されない。上告人は、一審判決が、徴税費用が少ないから「合理的」な制度であるとすることについて、徴税費が少ないというのは見かけだけで、社会的経費としては決して少ない金額とは言えないと主張しているのである。若干の運用のメリットがあったとしてもその徴税の費用は相当多額にのぼり、徴税費用が最少の方法であって合理的とはとてもいえない。仮に「最少の原則」に合致したとしても、租税原則の優位序列は「公平の原則」が最上位であることは後にのべるとおりであって、この「公平」を害するような「費用最少」原則は認められないのである。原判決はこの点論理上の誤りをおかしているのであって失当である。
まとめ――源泉徴収制度は不合理な制度である。
原審の証人となった北野教授は、一審判決に対して次のように述べている。
「わが税法は、給与所得に対しては徹底して源泉徴収を行い、しかも多くの者について年末調整を行っているため、多くの給与所得者は、事実上確定申告権を奪われている。源泉徴収制度は、法の建前においてはあくまで申告納税の事前納付のための一つの手段でなければならない。しかし、税法が多くの給与所得者に対して年末調整を一方的に強制しているために、多くの給与所得者は右の「事前納付」の手段という建前にもかかわらず、確定申告権を事実上奪われている。」
「年末調整を受けるかどうかは本来の納税者(サラリーマン)側の選択にゆだねる措置を導入することは税務行政上不可能ではなく、また法理論上も有意義であると考えられる。後者については若干付言すると、申告納税制度は憲法理論的視角からは憲法の国民主権主義の税法的表現ともみることができ、その意味においては年末調整を強制しないで国民の申告権を制度的に国民の側に留保せしめるほうが望ましいといえる。また、源泉徴収制度の一番大きなデメリットは源泉徴収を受けるサラリーマンに対し、納税者(タックスペイヤー)としての意義を稀薄ならしめるという点にある。納税者としての意識を納税者自身に対し制度的に確保せしめるという意味からも、年末調整を受けるかどうかは納税者側の選択にゆだねたほうが望ましいといえよう」。「つまり、申告納税制度のもとにおける確定申告権は法実践論的には憲法の国民主権の税法的展開としてとらえうるものであって、それは主権者である納税者の重要な権利行使であるとみることができる。確定申告権の保障は主権者である納税者の手続的権利の一つとしてそれ自体独自の論理によって確保されねばならないのである。」
「このような法理論を考慮するときは、年末調整を強制することによって給与所得者の確定申告権をどうしても一律に奪わなければならないだけの合理的理由が論者から説得的に示さなければならないといえよう。そこまで示さなければ法理論的には裁判所の結論に賛成しえない。おそらく裁判所といえども右の合理的な理由を説得的に示すことは困難であろう。裁判所もかえって源泉徴収制度が納税者の意識を稀薄ならしめるものであることを肯定せざるを得なかったことが注意されるのである。」(甲第四四号証・北野証言。参照)。
ところですでに見てきたように、原審判決の認容した源泉徴収制度の合理的根拠はなく、その述べるところ全く説得性がない。この制度維持に必要とした理由は、容易に申告納税の方式によっても充分カバーできることがわかったと思う。そしてかかる若干の第二次的な「長所」を上回る第一次的にどうしても確保されなければならない制度の民主性と公平の原則を破壊しているという点が存する以上、現行源泉徴収制度はとうてい容認できない。原審の認定は誤りという外はない。
三、租税法律主義違反――憲法八四条違反
1 はじめに
憲法八四条が定める租税法律主義とは、単に納税義務者・課税要件・税率・納税方法及び不服申立手続等が法律によって定められることだけでなく、これらについて定めた法律が憲法の各条項、とりわけ基本的人権保障条項の趣旨に則した合理的・合憲にして合法的なものであることを要すると考える。以下少しその内容に立入って検討したい。
2 租税法律主義の内容
(一) 租税法律主義は、その課税要件について単に法律によるだけでなく、その内容が市民の納得のいく合理的なものであること。と同時に、その手続についても右と同様に民主的な手続、つまり市民の権利保障を法律をもって規定すべきであることを宣言したものと解せられる。このことはフランス人権宣言(一七八九年)十四条の「すべての市民は、自身で又は代表者により」「……徴税方法および存続期間を規定する権利を有する」という規定と第十三条の平等原則を合わせ考えるとき明白になる。この点を整理して述べれば、
① 租税がすべて市民の間で能力に応じて平等であること。
② 合理的内容をもった基礎と徴収方法によること。
③ 租税について市民が自身で(又は代表者を通じて)その必要性を確認する権利があること。
④ 使途は人民自らの必要と考えたところに確実に配分する権利を有すること。
という原則に集約される。
右のように租税法律主義とは、単に法律をもって、課税要件・徴収方法を決めれば、内容はどのようなものでもよいというものでなく合理的であることを必要とすることは、多言を要しないであろう(谷山証言、北野証言参照)。現行日本国憲法八四条は、以上述べた原則を内包しているのである。以上のような沿革をふまえて、現憲法下における租税法律主義の「実質的内容」を論ずる場合には、二つの面から検討する必要がある。
一つは憲法、特に人権保障機能的側面(谷山治雄証人は政治的内容と表現する――谷山治雄「日本の税法」三四頁参照)であり、
二つは財政原則の面(谷山証人は経済的内容という――右同著書参照)である。
右の第一の憲法的側面から見る場合には、「少なくとも現行憲法に規定する基本的人権に関する諸条項を、税法の立法および解釈・適用にすべて織り込むこと」(右同著書三四頁)が必要である。そうであれば、原判決のように租税が国の存立の基礎であるからという理由で安易に他の人権を制限してもよいとする見解は極めて不十分であるといわざるをえない。
けだし、現行憲法は根本規範として、基本的人権尊重主義を掲げ、国家もまたそれを尊重する義務を負わされているからである。また「公共の福祉」という概念で、原判決のように基本的人権の制約が許されるものでないのは、宮沢俊義教授の見解をひくまでもない。
以下これらの内容を順次検討したい。
3 給与所得者に対する源泉徴収制度の反民主的性格と違憲性
(一) 源泉徴収制度の反民主的性格
原判決は、「給与所得者である納税者は極めて膨大で、給与所得発生の環境も千差万別であるから、給与の支払内容を熟知している支払者に源泉徴収義務を課すことにより、国は所得の正確な把握と、徴収の確得及び徴税費の大巾な節減を図ることが可能となり、歳入の平準化が図られる。他方給与所得者にとっても申告及び納付等の繁雑な手続から解放され、かつ納税も一度でないからその資金の手当が容易になるとして、源泉徴収制度が能率的かつ合理的な制度である」と現在の憲法条項に反しない旨認定する。はたして右のような認定が正しいであろうか。まずこの制度の歴史と、この制度のはたしている役割等をみてみたい。
(1) 給与に対する源泉徴収制度の沿革=戦時のため特殊制度
わが国の所得税法は明治二〇年にはじめて施行され、この法律の中に源泉徴収制が採り入れられたのは明治三二年三月一三日法律第一七号の所得税法の改正以降である。その後明治三八―四二年の改正、大正九年の改正、大正一二年の改正、大正一五年の改正、昭和一二年の改正、昭和一五年の改正があり、そして戦後二二年の改正に至っている。
元来、源泉徴収制は、日清・日露戦役の戦後財政において悪名名高い国債の価格維持のため、それに支払われる利子の減免という非常暫定措置に端を発するものであった。
この税制改正はいわゆる戦時の膨大な費用を徴収するためのものであって、右の目的に添うものであればいかなる制度でもこれを認容するような情勢にあった。即ち日本はすでに一九三七年(昭和一二年)に中国に対する全面的な侵略戦争に突入しており、国内においては治安維持法やその他の治安立法と特高警察をはじめとする治安機構を動員して労働の抑圧と民主的運動の根絶をはかり、「国民精神総動員」運動をおこして国民と物資の総動員体制を作りあげつつ、一九四一年に太平洋戦争へと突入して行くのであるが、このような戦時財政を支えるための大増税が給与所得に対する源泉徴収制度であった。この制度の源泉徴収義務者などの義務規定の繁雑、手数、罰則などをみるとき、平時においてはとても採用されるような制度ではなかったのである。時の政府の、特に軍部の異常な権力支配下で、それも最も容易に、巨額の戦費を獲得するため、正に侵略戦争を支えるための制度として導入されたのである。その一つの表れは一審の谷山証言に出ているとおり免税点の切り下げである。このためそれ以前の給与所得の納税者数が二倍以上になった。大衆課税強化の方策として源泉徴収制度が導入されたのである。ところで、戦後の一連の民主化措置の中で、一九四七年に申告納税制度が導入された。
ところが、戦後の民主的な申告納税制度の下においても、源泉徴収制度はそのまま維持させられた。それだけでなく戦前の賦課課税制下のそれよりも納税者に過酷なものとなっていたのである。即ち、戦前においては、(イ)徴収代行義務に対して代償が支払われていたのに対しこれを打切り、更に(ロ)刑事罰の威脅規定が強くうちだされたのである。その後一九四九年のシャープ勧告でも洗いなおされることなく、また新憲法制度発布の中でも、その具体的内容が検討されることなく、戦前の亡霊を今日まで引きずってきたのは異常という以外はない。現行憲法の理念の下でこの制度の全面的検討を本判決でされることを切に望むものである。
(2) 大衆課税のために温存されている源泉徴収
昭和四六年の給与所得者である納税者見込数は二六六四万人にのぼる。(因みに同年の事業所得者等は四二五万人である)。
原告らも含めて、現行の課税は健康で文化的な最低生活費にも課税するという、あまりに低いレベルの所得者に対する課税を含んでおるがために生じた数字である。昭和四八年度の納税人員でみると約二八〇四万人の源泉所得税の納税者の中で年間所得二〇〇万円以下が二、一二六万人、実に七五%強に及んでいるのである(谷山証言)。更に三〇〇万円以下となると約二、六四〇万人で実に九四%にものぼる数になる。これをみても戦前からの大衆課税の実態が如実に示されている。
特に最近数年の課税最低限の据置きは、インフレ・物価上昇と相俟って大衆課税、特に極端に低い所得者層にまで課税するという過酷な状況となっている。
他方で、大企業に対する特別措置、配当収入、利子収入に対する特別措置による税の軽減など目に余る不公平を放置している。このように、この税制の実質的機能に注目するとき、単に表面的な、納税人員が膨大であるという理由等で原審のような判断とすることは誤りという外はない。
(3) 納税者の税とその使途などに対する関心の稀薄の増長
申告納税制は、納税者自らが税法を調べ、自分で自分の収入・必要経費を計算して税額を算出し、これらを自ら納付することになっているため、必然的に税に対する関心が高まることは当然である。右のような民主的申告納税制度と対比するとき、源泉徴収制度が原判決がいうように「ともすれば納税者意識を稀薄ならしめる恐れ」なしとしないどころか、大いに稀薄ならしめてきていたのが現実であった。それどころか、国は「稀薄」にしておくことを狙っていた、少なくとも「稀薄」を利用していたと思われる。それは本件裁判も含めていわゆる総評が減税闘争の闘いをくむ前と、現在とでは給与所得者の源泉所得税の申告書の数が、いかに増大しているかを見るだけでもわかる。本件訴訟の提訴のあった昭和四五年には約一二二万通の還付の申告書が提出されたが、昭和五七年の三月には五一七万通に達している。このことは、税法に若干の関心があれば、税金の過納していることがわかり還付請求により還付を受けられるのに、関心が薄かったばかりに不当に多く源泉徴収されたままになっていたのであることが推測される。還付請求をした数も全給与所得者の割合からみれば微々たるものである。国は、自ら啓蒙を放棄し、多くの給与所得者が未だ過納分について、還付請求することに気がつかないことをいいことにそのまま放置しているといっても過言であるまい。以上の一事をもってしてもわかるように、源泉徴収は、納税者の主権者としての権利意識を阻害している制度である。
(4) すでに前述したように、源泉徴収制度の規定をみると大変不十分で、給与所得者の納税義務は反射的にその義務が生ずると解されているにすぎない。即ち、単に徴税の「客体」としか定められていないのである。かかる定め方は納税者の主権・人権を軽視している制度であって、この面からも租税法律主義に反すると言わねばならない。
(二) 現行憲法の基本的人権条項の中で、本件に関して、重要なのは憲法一四条・二五条、および手続の一般原則を定めた憲法三一条の規定であろう。
憲法三一条は、直接には刑事手続を定めた法規であるが、行政手続にも適用(又は準用)される(鵜飼「憲法」八四頁、佐藤「憲法」二〇九頁、他に芦部、清宮など)。
そして「手続的保護が刑事手続において発達したのは歴史の偶然にすぎないこと。即ち手続的保護を刑事手続にだけ関係ありとする、刑事手続に固有なものは何も存在しないこと、手続的保護は、専制と圧制から立憲民主制への進化の一部――しかもただの一部――として刑事手続上発達したものだということ」が十分考慮されなければならない。民主制は、国家権力が人民をあらゆる関係において公平に扱う点で専制と異るのだから、文理を尊重するあまり、刑事手続にだけ適正手続の保障がおよぶと結論するのは、国家権力を「パートタイムの民主制」の域にとどまらしめる結果を招来する(芦部「憲法の基礎知識」一一五頁)。憲法三一条の意味するところを行政の諸手続の中に生かさなければならないのである。
特に税は公権力によって全く一方的に徴収されるのであるから、その手続には憲法三一条が強く働くといってよい。
それでは、憲法三一条の中味は何か。租税法律主義に則して言えば、民主的にして、適正・公平な手続、即ち充分に納税者の権利に留意し、給与所得者と他の所得者らと何の不公平をもたらさず、かつ、充分な救済制度もつくることが合理的な手続の内容となろう。手続だからといって、国家の高度の公益性があれば、能率性と確実性だけを追求して人権をおろそかにしてもよいことには決してならないからである。
従って今日の憲法体系の下においては、原判決および一審判決のような見解は誤っているという外はない。特に申告納税制度は、原判決でも認めているとおり、納税者の主体制に依拠している民主的な制度である。かかる制度を、給与所得者にだけは採用せず、納税者の主体的権利を認めないことは現憲法下では許されない。まして給与所得者への源泉徴収制度は、昭和一五年の戦時緊急財政の中で確立され、戦後見なおしもされず、他の申告納税者との不合理な差別をその内容としている制度であるから二重に容認できないことは明白と言ってよい。それは、いかに法律で定めてあったとしても実質上の租税法律主義に反し違憲と言わなければならないものである。
(三) 租税原則と租税法律主義
次に、租税法律主義の実質的内容の第二の側面――財政原則について検討したい。
1 近代における租税原則は、国家権力に対して市民的自由を保障する基本的人権として成立したことは度々述べたとおりである。その主な内容は、古典経済学のアダム・スミスの学説に示されている次の四つである。
① 公平
② 明確
③ 便宜
④ 徴税費最少
ここでは、原判決が、重点的にとりあげている「確実かつ能率的」即ち便宜の原則と徴税費最少の原則についてふれてみたい。
便宜の原則とは、本来は「租税は貢納者がそれを支払うのにもっとも便宜である時期と方法で徴収されなければならない」(アダム・スミス)というものである。また徴税費最少の原則とは、徴税のための費用は納税者の負担となるものであるから、最小限度に切りつめるべきであるし、そのような税法・税率を考えるべきであるということであった。
ところで、原判決および一審判決は右の原則を曲解し、すべてを国の便宜にすりかえて給与所得者に対する源泉徴収制度はこれら原則に合致するごとく判示した。また納税者である賃金労働者・給与生活者にとって「煩雑」な納税手続から解放している点でも便宜であるとも判示している。
しかしこのような考え方は、経済的利益という観点からのみ考えてもおかしい。もし申告納税者と同じように、予定納税を含めて年三回の納税という手続がとられるならば、金利だけでも経済的利益があるからである。もし、経済的利益という観点から考えるならば、給与所得者の場合、源泉徴収制度をとるか、申告納税制度にするか納税者の自由な選択に任せるべきであろう。
更に便宜の原則には、納税の時期および方法に関する便宜だけでなく、税制ないし税法を知る便宜ということも重要な内容として含まれている(谷山証言)。民主主義的権利を自覚した納税者は、税金のことを知る権利がある。たとえ税制や税法が複雑であってもである。だが同時に政府や税制や税法について進んで納税者に知らせる義務を負っていると考えるべきである。現在行なわれている税務当局のPRのように、現在の税法や税制の矛盾をおおい隠すためのものであってはならない。源泉徴収制度は間接税と同様、納税者から知る権利を奪っているものということができるものである。
次に最少費用の原則について述べれば、アダム・スミスがこの原則をあげたのは、単に租税収入と徴税機関の支出を対比して、その少なからんことを期待しただけではなく、納税者側の「手数」と「困却」を減らすことをも目的としていたのである(谷山証言参照)。現在の国税における徴税費は、他の納税者や納税協力機構(青色申告会・納税貯蓄組合・税理士会等)体制によって支えられているのであって、一歩踏みこんで見た場合、徴税のための社会的費用はきわめて大きいと言われている。特に給与所得の源泉徴収制度に至っては、中小企業ほど大きな負担になっているのであって、その費用は決して社会的に無視しうるものではないことはすでにのべたところである。原判決の如く、国家のみ費用がかからなければ、納税者・給与所得者のためになるとは決して言えないのであって、原判決や一審判決の判示は全く表面をみてその実体を見ていない見解といわなければならない。
2 租税原則相互間の優劣
四つの租税原則の中で最重要なものは、「公平の原則」であることは、アダム・スミス自身も認めているところである。「財政学において課税の公平は、A・スミスやA・ワグナーなど多くの租税原則において、時代により社会によりその意味内容にちがいがあるものの、すべての租税原則に共通に含まれる最も重要な課税の原則とされてきた。現代においても課税の公平は最も重要な原則であることに変りはない」(中桐宏文「林栄夫還暦記念」二四一頁)。
右のとおり「公平・明確」であることが税体系・税制の基本であって、これら原則が確立された後に、第三・第四原則等が配慮されなければならないのである(F・ノイマルクも経済性の原則は公正原理の下に位置すると説く)。これは税制の手続面においても同様にあてはまり、不公平な手続は許されない。
3 まとめ
以上、租税法律主義の二側面から検討した結果、たとえ手続面だからといって、原判示の如く、税が「高度の公益性」を有するから他の申告納税者と対比して不利益に、即ち納税者の犠牲の上に給与所得者に対する源泉徴収手続を行うことは許されないというべきであり、その根拠となっている税法の諸規定は、制度上憲法一四条に違反し、憲法三一条にも反することになり、引いてはこれらは八四条にも反する結果になっているのである。
別表一
池畑家
46年1月~12月
平均
総理府勤労者世帯
(46年)東京都区部
大都市勤労者世帯
年間収入別
2,503~2,999,999円
収入総額
259,345円
213,264円
330,318円
実収入
227,634
135,173
222,475
勤め先収入
227,634
125,456
210,903
世帯主収入
123,495
116,514
174,613
定期
87,328
124,123
臨時
4,240
44,535
賞与
24,946
妻の収入
104,139
3,595
36,290
他の世帯員収入
5,346
事業内職収入
5,216
6,120
他の実収入
4,501
5,452
実収入以外の収入
31,711
34,896
49,598
(預金引出)
14,147
(月賦)
17,564
繰入金
43,195
58,243
支出総額
259,345
213,264
330,318
実支出
196,900
114,124
177,071
消費支出
169,795
102,604
150,022
食料費
39,669
32,195
37,626
住居費
21,347
12,824
14,531
光熱費
5,338
3,535
5,006
被服費
14,701
10,627
16,848
雑費
88,740
43,423
76,010
非消費支出
27,105
11,520
27,049
勤労所得税
12,675
4,246
他の税
5,681
2,947
社会保障費
8,749
4,167
その他
160
実支出以外の支出
62,445
55,363
92,135
(預金)
30,218
(保険掛金)
583
5,894
(土地家屋借金返済)
46,028
1,414
(他の借金返済)
1,666
1,640
(月賦払)
14,168
2,695
(その他)
7,503
繰越金
43,777
61,111
別表二
総評新理論生計費2人世帯
(昭48年8月)
東京都区部消費者物価指数で昭46年に換算(註3)
子ども経費(昭46年)
(註4)
総評新理論生計費修正額
食料費
34,613→31,853(註1)
(昼食2人分を引く)
26,820
8,863
35,683
住居費
28,966
25,055
25,055
光熱・水道費
4,349
3,905
613
4,518
家具什器費
10,837
9,980
979
10,959
被服身の廻り品費
37,114
28,875
3,040
31,915
保健・衛生費
5,711
4,917
1,546
6,463
教養娯楽費
16,585
13,699
2,703
16,402
交通通信費
5,463
4,889
4,889
職業関係費
20,400→34,400(註2)
(昼食2人分とその他妻分8,000円を加える)
29,790
29,790
その他の雑費
6,113
5,294
5,294
消費支出計
170,151
153,224
17,744
170,968
註1 総評新理論生計費の妻は就業していない。そこで夫と妻の2人分の昼食費を食料費から差し引き職業費へ。
註2 昼食費2人分を職業費に加え,妻の就業による職業関係費を8,000円とみて加算。
註3 東京都区部消費者物価指数(中分類)に基き,48年8月の理論生計費を46年におき換える為の指数は次の通り。
食料費84.2 住居86.5 光熱89.8 家具什器92.1 被服77.8 保健衛生86.1(中分類理容衛生) 教養娯楽82.6 交通89.5 職業86.6(中分類雑費) その他雑費86.6(同上)
註4 子ども経費の算定は次の手順である。
食料費−3才男子 労研消費単位0.5 成人男子48年8月21,053円を46年にすると17,726円 その0.5で8,863円
総評理論生計費において幼児を設定したのは,昭和41年の算定(労働経済者単身・3人・5人世帯の理論生計費)で男子3才の3人世帯。
別表三
総評新理論生計費修正額
池畑家
食
35,683
33,182
住
25,055
2,527
光・水
4,518
6,295
家・什
10,959
17,863
被・身の廻り
31,915
14,701
保・衛
6,463
11,449
教・娯
16,402
18,054
交・通
4,889
8,929
職業
29,790
22,030
その他
5,294
34,765
消費支出合計
170,968
169,795
別表四
食
33,182
住
2,527
光・水
4,518
家・什
10,959
被・身の廻り
14,701
保・衛
11,449
教・娯
16,402
交・通
4,889
職業
18,453
その他
5,294
消費支出計
122,374
別表五
共働き、パート・内職家計の支出増 1980年10月
(単位:円)
非共働き
共働き
パート・内職
実額
非共働きとの差
非共働
=100
実額
共働きとの差
非共働き
=100
消費支出
Ⅰ 非共働きとの実収入差
277,947
444,365
166,418
159.9
309,768
31,821
111.4
A
家庭内労働を社会的に代替することによって生ずるもの
加工調理食品
7,140
8,446
1,306
118.3
7,438
298
104.2
外食費(除く給食費)
10,376
20,899
10,523
201.4
9,733
△643
93.8
電気代
4,456
4,833
377
108.5
4,813
357
108.0
子供用洋服
1,504
2,719
1,215
180.8
1,092
△412
72.6
他の被服費
2,629
2,692
63
102.4
3,468
839
131.9
被服関連サービス費
1,242
2,793
1,551
124.9
782
△460
63.1
学校納入金
8,079
10,043
1,964
124.3
6,224
△1,855
77.0
家事サービス費
735
1,790
1,055
243.5
229
△506
31.2
小計
36,161
55,215
18,054
152.7
33,779
1,494
93.4
B
妻が働くことによって生ずる必要経費的なもの
婦人用洋服
1,899
2,703
804
142.3
833
△1,066
73.9
身の回り品
2,315
5,300
2,985
228.9
1,490
△825
64.4
理美容費
3,159
4,496
1,337
142.3
3,765
609
119.2
交通通信費
10,187
15,097
4,910
148.2
9,346
△841
91.7
自動車関係費
4,865
8,256
3,391
169.7
9,061
4,196
186.2
労働組合関係費
5,994
7,549
1,555
125.9
7,776
1,782
129.7
社会的活動費
447
683
236
152.8
485
38
108.5
交際費
8,706
24,021
15,315
275.9
7,918
△788
90.9
妻こづかい
413
2,810
2,397
680.4
15
△398
3.6
小計
37,985
70,915
32,930
186.7
40,689
6,625
107.1
C
生活のゆとりによって生ずるもの
嗜好品
14,011
15,394
1,383
109.9
15,326
1,315
109.4
教養娯楽費
10,482
13,046
2,564
124.5
12,107
1,535
114.6
世帯主こづかい
20,206
28,923
8,717
143.1
18,723
△1,483
92.7
小計
44,699
57,363
12,664
128.3
46,066
2,850
103.1
非消費支出
D
強制的支出
所得税
6,484
16,191
9,707
249.7
5,035
△1,449
77.7
他の税
9,864
16,275
6,411
165.0
8,566
△1,298
86.8
社会保険料
21,566
30,074
8,508
139.5
20,512
△1,054
95.1
小計
37,914
62,540
24,626
165.0
34,113
89.8
実支出以外の支出
E
貯蓄
貯金
62,807
99,311
36,504
158.1
49,528
△13,279
78.9
保険掛金
13,337
12,690
△647
95.1
14,658
1,321
109.9
小計
76,144
112,001
36,504
147.1
64,186
1,321
84.3
F
借入金返済(ABCの要素が混入)
土地・家屋
13,366
134,024
120,658
1,002.7
16,756
3,390
125.4
他の借金
4,682
6,907
2,225
147.5
4,960
278
105.9
月賦払
2,281
4,482
2,201
196.5
3,757
1,476
164.7
掛買払
2,261
3,561
1,300
157.5
2,124
△137
93.9
小計
22,590
148,974
126,384
659.5
27,597
5,144
122.2
消費支出合計Ⅱ
224,898
203,430
221,504
A+B(A+B/Ⅱ×100) 50,984(25.1) 8,116(3.7)
A+B+D(A+B+D/Ⅰ×100) 75,613(45.4) 8,116(25.5)
C+E(C+E/Ⅰ×100) 49,168(29.5) 4,171(13.1)
(注) 各小計欄は支出増費目(△以外)のみの合計